『SAD SONG FOR UGLY DAUGHTER』感想

『SAD SONG FOR UGLY DAUGHTER』感想
最後まで観終わって、まず絶句。
次に自然と自分の口から出た一言が・・「とんでもない芝居だ!」でした。
宮藤官九郎:作・演出 『SAD SONG FOR UGLY DAUGHTER』
(サッドソング・フォー・アグリードーター)
いやはや、クドカン、あいかわらず掴みどころがありません。
そして、そこが、まさに、この人の侮(あなど)れないところのようにも思います。


私がこれまで生で観たクドカン作のお芝居は、
『熊沢パンキース03』と『七人の恋人』。
全員が「死」に向かって疾走する『熊沢パンキース』には、
強烈な毒が感じられたし、
すべてコント仕立ての『七人の恋人』でさえ、
優しい残酷さ、みたいなものが伝わって来たのだけど・・


今回は、
内容を読み解くことが より一層 難しくなっている、というか、
すごーく感想書きにくい、というかw、
芝居の奥にある‘意味’(何かしら心に響くもの)を徹底的に破壊して、
より‘無’(意味のないもの)に近づけようとしている感じがして。


荒っぽく輪郭を作っては すぐに壊してしまって、
しかも、ハンマーで細かく砕くんじゃなくて、
大型ブルドーザーでグワーッとたたき壊してしまう感じなので、
その均(なら)してない足場の定まらないデコボコの上で、
強引に笑わせられてるような、酔うような感覚があって、
物語の流れにどう乗っかって行ったらいいのか、
どこに自分の気持ちを重ねればいいのか、分からなくて、
途方にくれてしまう、というか。


でも、その「置いてけぼりくらった感じ」って、
ちょっとつらくて、ちょっと寂しいには違いないけど、
私には、決して不快なものじゃなくて・・


ここ数ヶ月、
実生活で 見えない閉塞感みたいなものを味わっていた私は、
正直、このお芝居を観ることで、少し浮上したい、
という想いがあったのだけど、とんでもない、
クドカンに徹底的に痛めつけられて、踏みつけられて、
「どんなに望んだって過去には戻れないんだ」
「自分で変わろうと思わなきゃ何も変わらない」
って突きつけられて、
登場人物のキャラに笑わされつつ、
それをじんわりと受け入れている自分がいて・・


人間は、本当に複雑で面倒です。
感情も、価値観も、一瞬にしてどんでん返しになる。
誰かから愛される自分、疎(うと)まれる自分、
そういう、人とかかわって生まれる「相手目線の自分」を全部受け止めて、
そうして、出来ることなら、
変わりたい自分、変わりたくない自分、
変われない自分、懸命に変わろうとする自分、
本当の自分を素直に皆の前に晒して、自然に息がつければ・・
そんな自分を愛してあげられれば・・いいのだけれど・・
それってなかなか難しいよね、と思う。


一番身近なはずの‘家族’だろうが、
その難しさ、面倒くささは、たぶん変わりない。
いや‘家族’だから、なおさら大変なのかもしれない。


それでも、人は人と繋がって生きて行く。
生きて行かなくちゃいけない。
分かろうとするために、分かってもらおうとするために、
心を開いて、言葉を紡ぎ、会話を育てながら・・


生身の人間同様、
この舞台の登場人物は みんな単純じゃなくて、
正直、全員を理解し好きになることは出来なかったけれど、
最後に観る者に預けられた‘重み’を、
舞台の上にすべて置いて帰ることが出来る、
劇場を出た後までずっと心を痛め続けるようなものにならない、
一種の潔(いさぎよ)さがある、というのは、
この衝撃的な終わり方にしては、奇跡的、という気がしました。


自分が、今の状況下で、
このお芝居を素直に受け入れられたか、というと、
正直、一杯一杯だった気がするし、
もう一度生で観たいか、と言われても、
軽々しく「うん」とは答えられない気がするけれど、
幸いなことに、当日カメラが入っていて、
時間を置いて 映像で観られそうなので、その時に、ゆっくりと反芻して、
このお芝居の自分なりの保管場所を、
自分の中のどこかに見つけ出したいと思います。



話は少し逸れますが・・
この内容だと、やはり「本多劇場」で正解なんでしょうね。
宮崎あおいさんをヒロインに迎えた今公演、
いまやクドカンのネームバリューもかなりなものだし、
もっと広い劇場でやってもお客さんは入ると思うんだけど、
あえて400席足らずのキャパでやってる。


だからこそ自由に自分の好きなことが出来るし、
観てる人みんなが「面白かった〜」と思わなくてもいい、という、
いい意味での身軽さみたいなものがある。
もちろん、だからって半端なものを作ってるわけじゃなく、
十分過ぎるほどの歯ごたえがある上に、これだけのメンツを揃えて、
なのに、あえてこじんまりとやる・・という。


クドカンって、どこか照れと遠慮があるような気がします、
観てくれる人に対して。
「観に来てくれてありがとう」じゃなくて、
「わざわざご足労掛けてすみませんね〜」みたいなw。
松尾スズキさんにも似たような空気を感じるんだけど)


これだけ有名になっても、人気が出ても、
自分から商業ベースには乗らない、なるべく華やかなところには出たくない、
プロとしての足枷(あしかせ)を掛けられたくない、
常に、どこかに、素人臭さや、子供っぽい自由な遊び心や、
自虐的な残酷さや、劣等感が潜んでいるような感じ・・
そこが、この人の(そしておそらくはこの劇団の)
非常に興味深くて面白いところ、という気がします。




出演者について。


とにかく、出演者全員、
よくもまぁ、この不安定でよく分かんない芝居に食らいついて、
しかも、気持ちよく笑わせてくれたなぁ!
と感心することしきり。


松尾スズキ岩松了、両おっさんも良かったし、
荒川良々さんもあいかわらず自由で凄いなぁ、と思いましたが、
私としては、もう何と言っても、
ただただ、宮崎あおいさんの前にひれ伏したい気分。


ずーっと不機嫌に怒ってるんですよね〜あんなかわいい顔で。
それが、ひたすら徹底的にビターで、
え〜?あおいちゃんがこんな役なの?って思うんだけど、
逆に言えば、宮崎さんだから、微塵の甘さなく、
最後までビターなまま演じられたのかなぁ、という気もします。
何だか、途中からもう、
翠(宮崎さんの役)観てて切なくて仕方なかった。


田辺誠一さんは、従業員・けん坊役。
他の出演者同様、けん坊も単純ではなく、二面性を持ってます。
どこか、ムッチ(@鋼鉄番長)にも繋がるキャラw。
だけど、無理してる感じが一切なくて、
最初にスーッと上滑りになるところさえも 何だかすごく頼もしく、
クセ者揃いの共演者を相手に堂々と遊んでいて、
出来上がりは、こっちの方がずっとしっかりしている気がします。
もんのすご〜くデコボコな足場の上に 非常にバランスよく立っていて、
他の出演者同様、揺らぎがありません。


観ていて、
「結局どういうキャラなの?」と思うところもあったんだけど、
それでも何となく許せてしまうのは、
その謎の部分を、謎のままクドカンに丸投げされた田辺さんが、
自由に役を作り上げている感じがしたからでしょうか。
それは、たとえば、松尾スズキさんや、阿部サダヲさん、荒川良々さん・・
といった大人計画の面々に対するものに近い、
クドカンの、相手の力量を認めた任せ方(預け方)、のような気もします。
(でも、逆に、そこに田辺さんがすんなり収まってしまうのも、
ちょっと寂しい気がする、複雑なファン心・・w)


田辺さん、今回も、歌は歌う、踊りは踊る(体操だけどw)、
クドカンにいじめられてます。
いのうえさん(新感線)の時といじめられどころが似てる、というのは、
なかなか興味深かったですが、
(でもやっぱりクドカンは優しい いじめ方なのね)
それももう、観る側としては慣れて来ちゃった、ってところもあるので、
あとはミュージカルに出すぐらいしかないんじゃないでしょうかね〜
もっといじめたかったら。
日生劇場は勘弁して欲しいですけど、
本多劇場なら許せるような気がしますw。


それにしても・・
田辺誠一さんと宮崎あおいさんという、眉目麗しい二人が並んでるのに・・
『害虫』(10年前の映画)で、
めちゃくちゃ切なくて透明な空気感を作った二人なのに・・
一緒に歌ってるのが「正当防衛〜」って・・(爆・泣)


いや、いいけどさぁ、
クドカンだからこうなっちゃうのは仕方ないんだけどさぁ、
それはそれとして、誰か、この二人(特に田辺さん)に、
外見が正当に使われ、深い内面が浮かんで来るような役も、
たまには演じさせてやってくれ! 是非それを生の舞台で見せてくれ!
(そういう美しさと繊細さを演じられる数少ない俳優さんなんだから二人とも)
と思わずにはいられなくなっちゃいました。
まぁ、宮藤官九郎ウーマンリブの感想でそんなこと言っても
(せん)ないことではあるんだけどさっ。


あ、そうそう、
もんのすごいロングヘアで出てた田辺さんですが、
終盤、自前の短髪で出て来ます。
これはもう、ファンとしては嬉しかったです。
もう1年以上、どんどん髪が長くなりっぱなしだったので、
とっても新鮮でした。


前から2列目、などという、とんでもない良席に座っていた私、
手の届くぐらいの距離にナマ田辺、という、
もう一生ないだろう、ぐらいの幸運に恵まれたのですが、
いざとなったら照れくさくてガン見出来ず・・w


でも、チラチラ視線を送った先の短髪田辺さんは、
やっぱり素敵でしたよ♪



(2011/6/22 14:00〜 本多劇場 B列)