『TAROの塔』(第4回=最終回)感想

TAROの塔』(第4回=最終回/芸術は爆発だ!)感想
岡本太郎の「過去」と「現在」を交互に描き、
1回から3回にかけて徐々に歩み寄って来た時間軸は、
この最終回で、完全に、最初の「現在」(=万博時)に戻ります。
初回と同じシーンを使ってるところがあるんですが、
そのあたりがね〜、
すべてのピースがカチッカチッとうまく嵌(はま)って行く感じがして、
非常に心憎い作り方だと思いました。



今回、私が一番印象的だったのは、「黒い太陽」のエピソード。


太郎(松尾スズキ)の万博の仕事が多忙になるにつれ、
敏子(常盤貴子)は、置いてけぼりにされたような寂しさを味わうようになり
太郎と共に「岡本太郎」を作って来たという自負も揺らぎ、
丹下(小日向文世)を訪ねるのですが、
「あの塔は太郎さんにしか作れない。あれを見て世間は笑うかもしれない。
それだけとんでもないものを作ろうとしている。それが信じられない?」
と諭(さと)されます。


沈んでいる敏子を見かねた太郎は、
多忙にもかかわらず、芸術誌の連載の仕事を請けます。
このあたりの、敏子へのさりげない心遣いにもグッと来るのですが、
その後、敏子の前で、
太陽の塔の背に黒い太陽を描き入れるところは、
不器用な太郎さんの渾身のラブコールにも思えて、
何だか妙にときめいてしまったw。
「太陽にだって、光もあれば影もある。
光が生きれば、影だって生きて来る。同じように、影だって燃えてるんだよ」
「敏子、おまえは岡本太郎のシャーマンだろ?
丹下にくだらんことを聞くんじゃない」


しかし、晩年、アトリエを閉じることになった時、
万博の頃から太郎の弟子となった倉田(近藤公園)に
敏子はこう言われるんですね。
太陽の塔は先生の自画像。岡本太郎そのもの。
背中にある黒い太陽の顔、岡本かの子さんじゃないか、
って聞いたことがあります。
先生、否定しませんでした。で、やっぱりそうか・・って」
この直後、敏子は、パーキンソン病で余命幾ばくもない
太郎の首を絞めようとするんですが、
ここがね〜、もう、どうしようもなく切なかった。


太郎は、黒い太陽は敏子である、と思って描いたのだろうし、
もちろん、敏子も、そう思っていたと思うけれど、
それじゃあ なぜ太郎は、倉田の言葉を否定しなかったのか。


脚本の大森寿美男さんは、
風林火山』の時に「親切で分かりやすい脚本を書こうとは思わない」
というようなことをおっしゃっていたのですが、
今回もあまり親切に説明してくれてはいないですよねw。
だから、受け取り方は観る人さまざまでいいのかな、と思いますが、
私は、やはり、太郎の中に、
そう思われることが嬉しい気持ちがあったんじゃないか、という気がします。


自分の中にかの子がいる、
かの子の存在を自分の中に見出してもらえることの喜び、が、
太郎が否定しなかった理由じゃないのか、
それは、敏子をないがしろにしている、ということじゃなく、
太郎が生涯抱き続けた「母親」への飢餓感が、
ほんの少しだけ埋まった、ということじゃないのか、と。


しかし、敏子にとっては、
ずっと傍にいて一緒に血を流しながら「岡本太郎」を作って来た、
男と女の垣根を越えて、ひたすら尽くして来た、
そんな自分の唯一の「自己証明」として支えにして来たものを
否定されたような気持ちになったのではないか・・


敏子が泣きながら太郎の首に手を掛け、力を込める・・
弱々しい太郎が、彼らしい仕草で敏子を驚かせようとする・・
それは、まるで、前回から引き続いた、
敏子(常盤)vs太郎(松尾)の、‘最期のバトル’のようにも見えて、
何だかやっぱり二人とも凄まじかったです。


かの子(寺島しのぶ)にしても、敏子にしても、
このドラマの女性陣は本当に強いです。
それに比べて、男性陣は、太郎にしても、一平(田辺誠一)にしても、
どこか一歩引いている感じがする。


でも、太郎の、少し離れた場所からシニカルに世間を見渡す、
風刺の効いたその視線は、まさしく一平から受け継がれたものだし、
芸術に対する逃げない姿勢と、反骨精神は、
かの子によってもたらされたものだし。


弱いところも、強いところも、みんなひっくるめて、
やはり、岡本太郎は、紛れもない「一平とかの子の子」なのだなぁ、と。


しかし、それは、特別な「血」としての繋がり、というよりも、
太郎に対して、自分の持っているもの(才能や生きざま等々)を
すべて明け透けに開放して見せ、感じさせ、
結果、二人の‘すべて’(良いところも悪いところも)の中から
太郎自身に取捨選択させて、自分のものとして受け入れさせた、
かの子と一平の、そういう「環境の作り方」によるものだったのではないか
という気もしますが。


その、「一平とかの子が太郎の中に生きている感じ」が、
大人になった太郎からじんわりと伝わって来たのも、何だか嬉しかったです。



俳優さんについてですが、
常盤貴子さんも良かったですが、
今回は、もう、松尾スズキさんに尽きます。


前回まで観て来て、
正直、そこまで太郎氏の真似をしなくてもいいだろう、
大袈裟過ぎるんじゃないか、と思うところもあったのだけれど、
今回の松尾さんを観ていたら、
岡本太郎が「岡本太郎」というキャラとして演じていた部分を、
あえて「岡本太郎」の‘形態模写’をすることで
表現しようとしたのかな、と。


そして、それは、
敏子と共に「岡本太郎」という強烈なキャラクターを作り上げ、
自ら‘道化’となって、恥をさらしてもテレビに出続けた
岡本太郎という「表現者」に対する、
松尾スズキの、同じ表現者としてのリスペクトだったようにも思えて。


誰が演じても違和感があっただろう岡本太郎を、
あえてその違和感を大切にして演じ、
やがて自分のものとして静かに消化してしまう・・

う〜ん、やっぱり、松尾スズキという俳優さんも、
不思議な魅力を持っているなぁ、と改めて。
けっして器用な上手(うま)さは感じないんだけれどもw。


あと、今まで脇の人たちについてあまり書いてこなかったけれど、
(かの子と一平と太郎と敏子だけで精一杯だったw)
松尾さんの周囲を、
同じ劇団(大人計画)の正名僕蔵さんや近藤公園さんが
固めていたのが、微笑ましかったです。


それと、何と言っても、
小日向文世さんと西田敏行さんの存在が、
主要4役に劣らないぐらい、すごく大きかった気がします。
ガンガンぶつかって来る太郎に対して、
丹下(小日向)は、常に冷静な‘大人’のふるまいだったし、
坂崎会長(西田)は、逆に‘子供心’がある、というか、
いちいち面白がってる様子が可愛くてw、
太郎は、本当に「人」に恵まれていたんだなぁ、と思いました。



最終回まで観て来て思ったこと。
私が感じたこのドラマの最大の魅力は、
「登場人物の複雑な感情は、台詞という言葉だけを
頼りにしなくても、こんなにも深く表現出来るのだ」
(もちろん、まず脚本がいい、というのは大前提だけれど)
ということを、再発見出来たこと、
だったように思います。
しかも、それを、このドラマで何度も何度も感じることが出来た・・
出演者すべてに感じることが出来た・・
スタッフの力量を信じることが出来た・・
それは、TVドラマファンとして本当に嬉しいことでした。


こういうドラマが、もっともっと増えて欲しいです。
そして、そういうドラマに、
田辺誠一さんにいっぱい出て欲しい、と願っています。
(結局ヲタ発言で終わるのね・・w)


     *


以下、私の感傷を少し・・


「この万博を、全世界の人類が誇りを感じるような祭りとしたい。
私は、世界を回ってこう呼びかけるつもりです。
あなたの国で、まったくお金にならない
‘生きる喜び’を提供して欲しいと。
そう言われて、今の日本はいったい何が提供出来るのか。
私は、日本人として、そこで世界と闘いたいのです」
と、太郎は言いました。


太陽の塔がなければ、
万博は、ただの文明賛歌で終わっていたかもしれない。
自然への深い畏(おそ)れと祈りを込めた「祭り」ではなく、
ただ楽しく浮かれ騒ぐだけの「お祭り」になってしまったかもしれない。
明るくて豊かで快適な世界のみを「良し」とする万博に、
太郎が突き刺した「太陽の塔」という鉄槌は、
万博を訪れた人々の足を、一瞬留め、
前に進むことだけが素晴らしいのか、と考えさせる
きっかけにもなったような気がします。


しかし、残念ながら、それも長くは続かなかった。


「太郎の塔」に込められた畏怖と祈りを忘れ、
経済的・物質的文化(文明)への道を
再び ひた走って来た人間たちは、
この先、いったいどこへ向かって行こうとしているのでしょうか・・

太陽の塔は、
その行く末を、じっと見つめているような気がします。