『TAROの塔』(第1回)感想

TAROの塔』(第1回/太陽の子)感想
すごい!すごい!すごい!
最初から最後まで、これほど画面への吸引力が強いドラマ
を観たのは久しぶりのような気がする。
観終わった後、素直に「参りました!」と頭を下げたくなりました。
紙芝居のように薄っぺらで当たりの弱いドラマが多い中、
ダントツに、奥行きと深みと熱が感じられた作品。
たった50分で、これだけの内容が密度濃く伝えられるのですね!


普段、ほとんど芸術とは無縁な、私のような人間にも、
このドラマにおける岡本一家の行き方を通して、
「芸術」とは何か、「文化」とは何か、
「芸術家」が、いかに自分自身を追い詰め、
周囲を巻き込みつつ作品を生み出すか、
といった、非常に難しい(映像化しにくい)テーマが、
ゴツゴツした手触りの中、
ピリッとした緊張感を伴って伝わって来たような気がします。


「聖家族」と呼ばれた、という、この とてつもない一家を、
TVドラマというワクの中に収めようとした制作サイドの苦労は、
並大抵なものじゃなかっただろうと推察します。


岡本太郎松尾スズキさん。
思ったよりずっと似ていてびっくりしたんだけど、
モノマネになってないところが、さすが!だと思いました。
すごくエネルギッシュなんだけど、
どこか人間離れしていて、ふわんと浮いてるような、
子供の純粋さを保ったまま大きくなったような、
心の中に乾いた空洞を抱えているような、
不思議な魅力があって、惹かれました。


対するパートナーの敏子は、常盤貴子さん。
自由奔放な太郎を支える、
りりしい、と言ってもいいぐらい凛とした女性で、
こちらも魅力的。


万博直前、この国家プロジェクトのテーマプロデューサーを誰にするか、
事務総長・藤川(山崎一)は悩んでいた。
丹下健三小日向文世)も小松左京カンニング竹山)も、
岡本太郎がいい、と言うけれど、
藤川は、いまいちこの掴みどころのない人物に決めかねていて・・
しかし、他に誰も適任者がいない、という切迫した中で、
太郎に会いに行って、
通された部屋にあった『森の掟』という作品を観て、尋ねる、
「この、人を食った怪物はいったい何ですか」
太郎は答える、
「権力に対するnonだ。チャックを開けてごらん、中身はからっぽだ」と。
この一言に天啓を受けたかのような藤川の表情が、
すごく印象に残りました。


事務方の藤川が命を懸けたという、
「人類の進歩と調和」という万博テーマと、
岡本太郎を育んだ「芸術」とのぶつかり合いは必至。
それでも、藤川がこの人に賭けてみよう!と思った何かが、
太郎の中にあった、ということなんでしょうか。
そのあたりが今後どう描かれるのかも楽しみです。


そして、このドラマは、
この万博の時代と絡み合うように・・というか、
激しくぶつかり合うように、と言ったほうがいいかもしれませんが、
太郎の出生から幼少の時代も描かれているのですが、
その描写がまた非常に見応えがあって。
実は、今回 私がものすごく心惹かれたのは、
むしろ そちらのほうだったんですが・・w


何と言っても、太郎の両親である、
岡本一平田辺誠一)・かの子(寺島しのぶ)夫妻のインパクトが、
私としては、めちゃくちゃ強かったです!


いや、寺島しのぶさんに関しては、誰も異論はないと思うんだけど、
なぜ田辺さんも・・?と思ってる人もいるんじゃないでしょうか。
「まぁ、あなたは田辺さんのファンだからね」と、サラッと言われたら、
「そりゃそうだ」と返すしかないんだけどw
でも、相手役として寺島しのぶを受け止めて、
かつ、岡本一平として岡本かの子を受け止める、って、
そんなに簡単なことではなかったんじゃないか、とも思うので。


一平が、かの子の家に結婚を申し込みに行く、その時の、
夢をいっぱい背負ったような、まっすぐな瞳も印象的だったけれど、
5年後、画家をあきらめ、
かの子に「凡俗」呼ばわりされつつも、漫画家として生計を立て、
かの子と太郎(高澤父母道)を養っている・・
だけど、どこかに羨望や未練や忸怩(じくじ)たる思いがあって、
放蕩を繰り返してしまう・・
その、凡俗に堕ちることを自分に許してしまった画家くずれの風情も、
私には、とても魅力的に感じられました。


みどころは、
一平が同居を許したかの子の愛人・堀口(成宮寛貴)と、
かの子・太郎・一平が、すきやき鍋を囲むシーン。
堀口は、一平の尋常でない許容に戸惑いながらも、
夏目漱石に漫画が認められるなんてすごい」と言いつつ、
(この凡人では絶対にかの子を幸せに出来ない)と考え、
一方の一平は、
「かの子を連れてどこかへ逃げ出そうとは思わないでくれ」と言いつつ、
(おまえに かの子の何が分かる)と淡々と構え、
そんな二人の間で、かの子は、太郎を抱き、嬉しそうに微笑み、
そうして、肉をほおばる太郎の頭の上を、
さまざまな感情が静かにぶつかって、静かにはじけて・・


実は、私がさらに好きだったのは、そのあと・・


堀口とかの子が二階に上がった後、
階上のかすかな物音に複雑な想いを抱きながらも、
一平は、「芸術家ってなぁに?」と尋ねる太郎にこう言う、
「生きて地獄を見る人のことだ。
世間の常識や固定観念にnonと挑みかかる人のことだ。
non・・いやだ!と。
どんな目にあっても、自分を貫くことだ。
純粋に童女のまま大きくなってしまったお母さんは、
その地獄と闘わなければいけないんだ。
お父さんは大人になってしまったがな・・」


・・だからお母さんと一緒に闘えない・・


一方、堀口の腕の中で、かの子は言う、
「あの人は私を愛してるだけよ。手も握ってくれない。
・・あなたは、お腹の中で考えていることを、私に見せてね」


若い愛人の存在をわざわざ夫に知らせる妻と、
その愛人をあえて自分たちと一緒に住まわせる夫・・
一見、常識はずれの奇異な夫婦に見えるけれど、
この、とんでもない状況の中で・・というか、だからこそ、
お互いの心の奥が透けて見えて来るようで・・
すごく惹かれるものがありました。
(個人的に、このシーンの田辺さんが一番好きです)


実際、一平はかの子をどう思っていたのでしょうか。
良い作品を生み出すために、堀口という‘餌’が必要なら、
それを与えてやるのも厭(いと)わない、と、
本当にそこまで達観していたのでしょうか。


いやいや、私は、
やはり彼の中にも嫉妬はあっただろう、と思うのです。

しかし、同じ芸術家としてかの子を内側から満たしてやることを、
彼は放棄してしまった。
彼にとってかの子は、童女であり巫女であり女神であり、
手を触れることが出来ない神聖なものになった・・


では、かの子は一平をどう思っていたのか。
凡俗に堕ちた一平を軽蔑し、バカにしていたのか、というと、
それもちょっと違うと思うのです。

一平に向かってひどい言葉を浴びせながらも、
もしかしたら、心の奥底のどこかで、
一平が昔のように自分を満たしてくれるのを待っていたんじゃないか・・
結局二人は、心の一番奥のところでは繋がっていたんじゃないか・・
と、そんな妄想を抱くのを止められず。
(自分の好みで都合のいいように考え過ぎかもしれないけど・・w)


結局、かの子の心の空洞を堀口は埋められず、
病に倒れ、死んでしまい、
その頃は一平もますます家に寄り付かなくなっていて(そりゃそうだ・・)
かの子と太郎は二人きりになって、生活は困窮を極めます。
思い余って川に入ろうとする母親を、太郎が必死で止め、
夕日に向かって「noーn!noーn!」と叫ぶ!
・・いやもうこのシーンは身震いしちゃいました。


やがて太郎は寄宿舎に入るのですが、もうその頃には、
納得行かないことに「non!」と挑む姿勢は出来上がっていて。
「お父さんとお母さんは二人きりになる時間が必要だ」
なんてことを、考える子にもなっていて。

当の二人は、というと、
かの子はやっと自分を満たしてくれそうな相手(=太郎)を見つけ、
一平は、そんなかの子の、「太郎と二人でパリに行く」という夢を、
必ず叶えてやろう、と約束するんですね。
で、実際に数年後に叶えてあげちゃう、という・・


なんだろうなぁ、
一平って、かの子の芸術家としての飢餓感を
満たしてやることは出来なかったけれど、
かの子そのものをスッポリと包もうとしてた気がします、
無意識のうちに、かもしれないけれど。


本当に不思議な夫婦です。
この一家が「聖家族」と呼ばれたのも、何となくうなづけます。


さて、次回はいよいよパリへ!
濱田岳くんの青年・太郎も楽しみですが、
一平・かの子夫妻がこの先どのように描かれるか、も、
本当に楽しみです。