『TAROの塔』(第2回)感想

TAROの塔』(第2回/青春のパリ)感想
いよいよ濱田岳くんの登場(青年時代の太郎役)ということで、
彼に興味津々の私が、なお一層テレビに釘付けになったのは
言うまでもありませんw。


――で、パリです。 


・・って簡単に言うけど、
当時は、渡航するだけでも大変なことだったわけで、
一平パパ(田辺誠一)、
「太郎を連れてパリに行く」というかの子(寺島しのぶ)の夢を
実現させるために、どんだけ頑張ったんだよ〜!
って、切なくなりました。
(実際、この頃の一平さんは、漫画家として、
一時代を画すほどの確固たる地位を築いていたらしい)
だからって、かの子に表立って感謝されてるわけでもなし・・(泣)


しかし、どんなに一平(@田辺)贔屓の私でもw
やっぱり かの子(@寺島)の芸術家としての感性がすさまじいことは、
認めないわけに行かない。


一平と一緒に2年間ヨーロッパを旅した後、
パリで生活していた太郎のもとに戻ったかの子は、
太郎が壁にぶつかって苦悩しているのを見て、こう諭(さと)す。
「おまえの絵を最初に認めるのは、おまえしかいないんだよ。
人の評価に自分を委ねてはだめ」
「初めから あてのないことをしているのだから、
迷うことを恐れず、ひたすら手を動かしながら、考えることです」


もうこのあたりは、心にビンビン響く珠玉の言葉が次々と。
これらが、実際にかの子が言った事なのか、
脚本・大森寿美男さんの創作なのか、は分からないけれど、
寺島さんが、しっかりと自分の言葉にして、
ものすごく説得力のある強い話し方をするので、
強烈にこちらに伝わるものがありました。


一平とかの子が日本に帰る日。太郎が一平に言う・・
「いままでお父さんはお母さんを食べて来ました。
今度はお母さんがお父さんを食べる番です」
・・実は初見では、
ここで私の思考はほとんどストップしてしまったんですが・・
「食べる」ってどういう意味なんだろう・・と・・


ともあれ、一人パリに残った太郎は、孤独の中で、
ピカソの絵と出逢い、ジョルジュバタイユの思想と出逢って、
徐々に何かを掴みかけて行きます。


このあたりの‘揺れる太郎’を、
濱田くんが、実に骨太に、そして緻密に演じています。
(彼の気持ちに添うようにカメラも揺れるので、
太郎の寄る辺(よるべ)なさが増幅)
彼ぐらい若い俳優さんで、これだけ複雑で歯ごたえのある役を、
こんなに的確に自分の内に引きずり込んで演じられる人は、
それほどいないんじゃないでしょうか。
(と惚れ直す私)


一方、万博間近の太郎さん(松尾スズキ)は・・
丹下健三小日向文世)の設計したメイン会場の屋根に、
巨大な穴を開けて、塔を建てることを提案、
丹下と真っ向から対立することになります。


だけど、太郎も凄けりゃ、丹下も凄い。
丹下の部下・倉田(近藤公園)がゴミ箱に捨てた
太郎の塔の絵を見て、かすかな可能性を見出す、ってところも
ザワザワしたんですが、さらに・・


丹下が太郎と電話で話している。
「私はこれまで、
芸術というものは、建築の中にしか存在し得ないと思っていた。
建築家が芸術家を食うものだと思ってきた。
それが、食い破られるとは思わなかった。
あんな大穴を開けるのは、構造上とても危険なんだよ」
「だから、俺にしか思いつかなかった」
「うん、だから、太郎さんじゃなきゃだめだったんだ」
「やっぱり、食われたのは俺だろう」
う〜ん、このやりとりがね〜、本当に凄かった!


食うか食われるか・・
しっかりとした「自己」を持った者どうし、
相手に対し、相容れないものを感じながらも、
どこかでお互いの凄さを認めて行く。
認めたものを貪欲に自分の内に引き入れて、自分のものとして吸収する・・
そうやってひとまわり大きくなった自分を、また相手が吸収して行く・・


相手の存在が、自分を高め、自分の存在が、相手を高める。
でもそれは、ライバル、という向き合った関係ではなく、
向かう先は、もっとずっと高いところにあって、
その遥かな到達点をひたすら見据えつつ、
食い食われながら共に登って行く・・


たぶん、一平と かの子も そうだったのかな、と。


日本に戻って来たかの子は、精力的に小説を書き始めます。
敏子(常盤貴子)が想像するように、
おそらくそこには、一平の全面的な協力があったに違いない。


二人はようやく、
お互いの中に自分の居場所を見つけたのでしょうね。
素直に一平に甘えるかの子と、やさしく肩を抱く一平と・・
そこに至るまでの道程が、
あまりに厳しく切なくつらいものだっただけに、
観ているこちらの胸にグッと来るものがありました。


そうして、かの子の死・・
それが、パリにいる太郎にどれだけの衝撃を与えたのか、
計り知れないものがありますが・・
私はやはり、一平の気持ちに添わずにはいられなかった。


芸術家になることを諦めて以来、
彼の中のかの子は、女神のように神聖な存在になった・・
「手も握ってくれない」と語るかの子に、
寂しさを強(し)いてしまっていると知りつつ、
彼は、自分では決して、
かの子の芸術家としての飢餓を埋めてやろうとはしなかった。


おそらく、ついに最期まで、
「愛する女性」として正面からかの子に向き合うことを
しなかったであろう一平が、
彼女の大好きだった赤い薔薇でその遺体をうずめながら、
死んでようやく強くしっかりと手を握ることが出来た、
そのシーンを観た時に・・
岡本かの子という女性を、最期まで「芸術家」として愛し、
芸術家としてのかの子にすべてを捧げ、
自ら食われることで、
彼女をより高みへと押し上げることに幸せを見出した一平の、
深い深い想いが一気に押し寄せて来て・・


そしてさらに、
そういう二人の生き方を、すべて許し認め愛し、
そうして自分がここにいる、とでもいうような、
太陽の塔を見つめる太郎(松尾)の表情の雄弁さに、
胸をギュッと掴まれて・・


何だか今回も、私は、
半ば呆然としたまま、このドラマを観終えたのでした。


    *
    *


―――以下、田辺ヲタのひとりごと。


岡本一平田辺誠一に、と考えたスタッフの狙いは
どこにあったのだろう。


田辺さんが今まで演じて来た役を思い出す時、
女性と正面から相対するものが、意外と少ないことに気づく。
圧倒的に多いのは、
愛する女性を、隣で、あるいは斜め後ろで、
見守り、支え、そっと後押ししてくれるような存在。
女性は、その力を得て、
直面する問題や、望む未来に向かって、一歩を踏み出す。


田辺ファンとしては、
相手役とガッツリ組んだラブロマンスを観てみたい!
というのは、ず〜っと前から願っていることではあるんだけど、
こういう「女性の肩越しにいて支えてくれるいい男」
(しかも、そこに収まるまで、本人は相当の葛藤あり、だったり)
ってポジションも大好物wの私としては、
今回の一平役が田辺さんに与えられたことは、本当に素直に嬉しかった。


寺島さん演じるかの子の個性が強烈だったために、
田辺さんの一平は影が薄い、と感じた人も多かったかもしれないけれど、
私は、
かの子を愛していながら、
彼女を女性として見ることを自らに封じた一平という人物の、
一種の「純愛」を描く上で、
田辺誠一が持つ、独特のあの‘質感’が必要だ、と
スタッフがそう思ってくれたのだ、と信じたいし、
田辺さんは、その期待に十分に応えてくれた、と思っている。


そして、かの子の死以後、の一平を、
今後、田辺さんはどう演じてくれるのか、を、
より興味深く見届けたい、と思う。
(そこにこそ、この俳優の真価があるようにも思うので)


それにしても・・
田辺さんはますます「いい男」になっているなぁ、と。
(見た目だけじゃなくて、いろんな意味で)
いや、いつもそう思ってるけど(爆)今回は特に。
40歳を過ぎても、どんどん進化している、と感じられる。
だから、この人のファンを続けるのは本当に楽しい。