『ガラスの仮面』考

ガラスの仮面』考
以下、『ガラスの仮面』(単行本)48巻までを読んでの、
私の妄想含みの一考察となります。
49巻は未読ですので、その内容には触れていません。
ご了承下さい。


     *


スカパー(チャンネルNECO)で放送されていた『ガラスの仮面2』が、
先日、最終回を迎えたんですが、
好評だったのか、今月また『ガラスの仮面1』の再放送が始まるようです。
原作(マンガ)のほうも佳境に入っているようで、
30数年続いた大河マンガも、ようやく終息に向かっている模様。
私自身は、43巻(単行本)あたりで買うのを止めてしまったんですが、
最近、このマンガのラストがどんなものになるのか、
考える機会がありまして・・


というのも、
たとえば森光子さんだとか、
彼女が演じた『放浪記』の林芙美子だとか、
TAROの塔』の岡本かの子だとか、岡本太郎だとか、
あるいは中村勘三郎さんだとか・・
彼らの「芸」(芸術)に対する尋常ならぬ打ち込み方に触れた時に、
芸術の真髄を命懸けで求める者たちにとって、
辿り着くべき場所、というのは、永遠に見つけられないんじゃないか、
という気がしたのです。
走っても走っても走っても、まだその先、もっと先に、道は続いている、
だからまた走り続ける・・死ぬまで・・・
止まれば楽になれるかもしれないけれど、
彼らにとって、芸への疾走を止めることは、死んだと同じこと。


北島マヤ、という少女も、そういう人間なんじゃないかと思うのです。
永遠に走り続けなければならないように宿命づけられた人間なんだと・・
そんなマヤにとっての一番の幸せは何か、
そして、彼女を支え続ける速水真澄にとっての一番の幸せは何か、
この、長い長い「紅天女に続く芸道物語」の締めくくりは、
いったいどんなものになるのか、
つい、いつもの想像(妄想)をめぐらしてしまいます。
たとえば、こんなふうに・・
紫織が、ただ、マヤと速水の恋の行く手を阻む存在だけであるならば、
この物語におけるもっとも大きな障害にはならない、
一番の障害は、マヤが紅天女を演じることを邪魔する者、あるいは事象、
であるはずだ、と・・


その辺、原作者の美内すずえさんはどうお考えなのか、を探るべく、
44〜48巻を借りて読みました。
その中には、マヤと速水がやっとお互いの気持ちを通じ合わせた、という、
まさに劇的な出来事もあったのですが、
私は、なぜか、そのことに関してはあまり心を動かされなくて・・
それは、
ふたりの現実的な恋の成就が この物語のクライマックスではないのだから、
これもまたひとつの通過点に過ぎない、という想いが、
私の中にあったせいかもしれません。


マヤのライバル・姫川亜弓は、
失明の危機を迎えながらも、他の感覚を研ぎ澄ますことで、
大切な何かを掴み取ろうとしています。
それだけのものを失ってなお「紅天女」を演じようとする
亜弓の執念に匹敵するものを、
マヤは、芝居の神様に差し出さなければならない。
でなければ、亜弓に勝つことは出来ない。
それは何か・・


美内さんは、ここに来て、
速水真澄の存在が(現時点では)「黒沼版・紅天女」の弊害になりつつある
紅天女を演じるマヤの妨げになる)
という、とんでもないカードを切って来ました。
一真を演じる桜小路の、阿古夜(紅天女=マヤ)への想いが
より明確に強く描かれるようになって来たことを考えると、
阿古夜を演じるマヤにとって、速水はどういう存在であればいいのか、
ぼんやりと見えて来たような気もします。


すでに、美内さんの頭の中では、
最終回に向けて、
ハッピーエンドでもバットエンドでもない
一つの明確な道筋が出来上がっているように思われる・・
そのための布石を、いろんな場面に打っている・・という気がするのですが、
それはただ、私の妄想ゆえのこと・・なのでしょうか。



追記。
ヒントは、マンガの中だけでなく、
ドラマの中にも、ちりばめられていたような気がします。
なので、ドラマ版の最終回と言えるSPが再放送されるとしたら、
マンガが終わりを迎えてから、のような気がします。