『TAROの塔』感想まとめ

TAROの塔』感想まとめ
恒例wの、DVD発売記念 感想まとめです。
初出時のものを若干修正しました。改めて読んでいただければ幸いです。

 

▼第1回/太陽の子   投稿日:2011年 3月 4日(金)
すごい!すごい!すごい!
最初から最後まで、これほど画面への吸引力が強いドラマを観たのは
久しぶりのような気がする。
観終わった後、素直に「参りました!」と頭を下げたくなりました。
紙芝居のように薄っぺらで当たりの弱いドラマが多い中、
ダントツに、奥行きと深みと熱が感じられた作品。
たった53分で、これだけの内容が密度濃く伝えられるのですね〜!

 

普段、ほとんど芸術とは無縁な、私のような人間にも、
このドラマにおける岡本一家の行き方を通して、
「芸術」とは何か、「文化」とは何か、
「芸術家」が、いかに自分自身を追い詰め、
周囲を巻き込みつつ作品を生み出すか、
といった、非常に難しい(映像化しにくい)テーマが、
ゴツゴツした手触りの中、
ピリッとした緊張感を伴って伝わって来たような気がします。

 

「聖家族」と呼ばれた、という、この とてつもない一家を、
TVドラマというワクの中に収めようとした制作サイド
(制作統括:訓覇圭、演出:梛川善郎、脚本:大森寿美男)の苦労は、
並大抵なものじゃなかっただろうと推察します。

 

岡本太郎松尾スズキさん。
思ったよりずっと似ていてびっくりしたんだけど、
モノマネになってないところが、さすが!だと思いました。
すごくエネルギッシュなんだけど、
どこか人間離れしていて、ふわんと浮いてるような、
子供の純粋さを保ったまま大きくなったような、
心の中に乾いた空洞を抱えているような、
不思議な魅力があって、惹かれました。

 

対するパートナーの敏子は、常盤貴子さん。
自由奔放な太郎を支える、
りりしい、と言ってもいいぐらい凛とした女性で、こちらも魅力的。

 

万博直前、この国家プロジェクトのテーマプロデューサーを誰にするか、
事務総長・藤川(山崎一)は悩んでいた。
丹下健三小日向文世)も小松左京カンニング竹山)も、
岡本太郎がいい、と言うけれど、
藤川は、いまいちこの掴みどころのない人物に決めかねていて・・
しかし、他に誰も適任者がいない、という切迫した中で、
太郎に会いに行って、
通された部屋にあった『森の掟』という作品を観て、尋ねる、
「この、人を食った怪物はいったい何ですか」
太郎は答える、
「権力に対するnonだ。チャックを開けてごらん、中身はからっぽだ」と。
この一言に天啓を受けたかのような藤川の表情が、
すごく印象に残りました。

 

事務方の藤川が命を懸けたという、
「人類の進歩と調和」という万博テーマと、
岡本太郎を育んだ「芸術」とのぶつかり合いは必至。
それでも、藤川がこの人に賭けてみよう!と思った何かが、
太郎の中にあった、ということなんでしょうか。
そのあたりが今後どう描かれるのかも楽しみです。

 

そして、このドラマは、
この万博の時代と絡み合うように・・というか、
激しくぶつかり合うように、と言ったほうがいいかもしれませんが、
太郎の出生から幼少の時代も描かれているのですが、
その描写がまた非常に見応えがあって。
実は、今回 私がものすごく心惹かれたのは、
むしろ そちらのほうだったんですが・・w

 

何と言っても、太郎の両親である、
岡本一平田辺誠一)・かの子(寺島しのぶ)夫妻のインパクトが、
私としては、めちゃくちゃ強かったです!

 

いや、寺島しのぶさんに関しては、誰も異論はないと思うんだけど、
なぜ田辺さんも・・?と思ってる人もいるんじゃないでしょうか。
「まぁ、あなたは田辺さんのファンだからね」と、サラッと言われたら、
「そりゃそうだ」と返すしかないんだけどw
でも、相手役として寺島しのぶを受け止めて、
かつ、岡本一平として岡本かの子を受け止める、って、
そんなに簡単なことではなかったんじゃないか、とも思うので。

 

一平が、かの子の家に結婚を申し込みに行く、その時の、
夢をいっぱい背負ったような、まっすぐな瞳も印象的だったけれど、
5年後、画家をあきらめ、
かの子に「凡俗」呼ばわりされつつも、漫画家として生計を立て、
かの子と太郎(高澤父母道)を養っている・・
だけど、どこかに羨望や未練や忸怩(じくじ)たる思いがあって、
放蕩を繰り返してしまう・・
その、凡俗に堕ちることを自分に許してしまった画家くずれの風情も、
私には、とても魅力的に感じられました。

 

みどころは、
一平が同居を許したかの子の愛人・堀口(成宮寛貴)と、
かの子・太郎・一平が、すきやき鍋を囲むシーン。
堀口は、「夏目漱石に漫画が認められるなんてすごい」と言いつつ、
一平の尋常でない許容に戸惑いながら、
(この凡人では絶対にかの子を幸せに出来ない)と考え、
一方の一平は、
「かの子を連れてどこかへ逃げ出そうとは思わないでくれ」と言いつつ、
(おまえに かの子の何が分かる)と平然と構え、
そんな二人の間で、かの子は、太郎を抱き、嬉しそうに微笑み、
そうして、肉をほおばる太郎の頭の上を、
一人の女と 二人の男の 複雑な感情が、静かにぶつかって、絡まって、
静かにはじけて・・

 

実は、私がさらに好きだったのは、そのあと・・

 

堀口とかの子が二階に上がった後、
階上のかすかな物音に複雑な想いを抱きながらも、
一平は、「芸術家ってなぁに?」と尋ねる太郎にこう言う、
「生きて地獄を見る人のことだ。
世間の常識や固定観念にnonと挑みかかる人のことだ。
non・・いやだ!と。
どんな目にあっても、自分を貫くことだ。
純粋に童女のまま大きくなってしまったお母さんは、
その地獄と闘わなければいけないんだ。
お父さんは大人になってしまったがな・・」

 

・・だからお母さんと一緒に闘えない・・

 

一方、堀口の腕の中で、かの子は言う、
「あの人は私を愛してるだけよ。手も握ってくれない。
・・あなたは、お腹の中で考えていることを、私に見せてね」

 

若い愛人の存在をわざわざ夫に知らせる妻と、
その愛人をあえて自分たちと一緒に住まわせる夫・・
一見、常識はずれの奇異な夫婦に見えるけれど、
この、とんでもない状況の中で・・というか、だからこそ、
お互いの心の奥が透けて見えて来るようで・・
すごく惹かれるものがありました。
(私は、このシーンの田辺さんが一番好きです)

 

実際、一平はかの子をどう思っていたのでしょうか。
良い作品を生み出すために、堀口という‘餌’が必要なら、
それを与えてやるのも厭(いと)わない、と、
本当にそこまで達観していたのでしょうか。

 

いやいや、私は、
やはり彼の中にも嫉妬はあっただろう、と思うのです。

 

しかし、同じ芸術家としてかの子を内側から満たしてやることを、
彼は放棄してしまった。
彼にとって、かの子は、童女であり巫女であり女神であり、
手を触れることが出来ない神聖なものになった・・

 

では、かの子は一平をどう思っていたのか。
凡俗に堕ちた一平を軽蔑し、バカにしていたのか、
というと、それもちょっと違うと思うのです。

 

一平に向かってひどい言葉を浴びせながらも、
もしかしたら、心の奥底のどこかで、
一平が昔のように自分を満たしてくれるのを待っていたんじゃないか・・
結局二人は、
心の一番奥のところでは繋がっていたんじゃないか・・
と、そんな妄想を抱くのを止められず。
(自分の好みで都合のいいように考え過ぎかもしれないけど・・w)

 

結局、かの子の心の空洞を堀口は埋められず、
病に倒れ、死んでしまい、
その頃は一平もますます家に寄り付かなくなっていて(そりゃそうだ・・)
かの子と太郎は二人きりになって、生活は困窮を極めます。
思い余って川に入ろうとする母親を、太郎が必死で止め、
夕日に向かって「noーn!noーn!」と叫ぶ!
・・いやもうこのシーンは身震いしちゃいました。

 

やがて太郎は寄宿舎に入るのですが、もうその頃には、
納得行かないことに「non!」と挑む姿勢は出来上がっていて。
「お父さんとお母さんは二人きりになる時間が必要だ」
なんてことを、考える子にもなっていて。

 

当の二人は、というと、
かの子はやっと自分を満たしてくれそうな相手(=太郎)を見つけ、
一平は、そんなかの子の、「太郎と二人でパリに行く」という夢を、
必ず叶えてやろう、と約束するんですね。
で、実際に数年後に叶えてあげちゃう、という・・

 

なんだろうなぁ、
一平って、かの子の芸術家としての飢餓感を
満たしてやることは出来なかったけれど、
かの子そのものをスッポリと包もうとしてた気がします、
無意識のうちに、かもしれないけれど。

 

本当に不思議な夫婦です。
この一家が「聖家族」と呼ばれたのも、何となくうなづけます。

 

さて、次回はいよいよパリへ!
濱田岳くんの青年・太郎も楽しみですが、
一平・かの子夫妻がこの先どのように描かれるか、も、
本当に楽しみです。


▼第2回/青春のパリ   投稿日:2011年 3月10日(木)
いよいよ濱田岳くんの登場(青年時代の太郎役)ということで、
彼に興味津々の私が、
なお一層テレビに釘付けになったのは言うまでもありませんw。

 

――で、パリです。

 

・・って簡単に言うけど、
当時は、渡航するだけでも大変なことだったわけで、
一平パパ(田辺誠一)、
「太郎を連れてパリに行く」というかの子(寺島しのぶ)の夢を
実現させるために、どんだけ頑張ったんだよ〜!
って、切なくなりました。
(実際、この頃の一平さんは、漫画家として、
一時代を画すほどの確固たる地位を築いていたらしい)
だからって、かの子に表立って感謝されてるわけでもなし・・(泣)

 

しかし、どんなに一平(@田辺)贔屓の私でもw
やっぱり かの子(@寺島)の芸術家としての感性がすさまじいことは、
認めないわけに行かない。

 

一平と一緒に2年間ヨーロッパを旅した後、
パリで生活していた太郎のもとに戻ったかの子は、
太郎が壁にぶつかって苦悩しているのを見て、こう諭(さと)す。
「おまえの絵を最初に認めるのは、おまえしかいないんだよ。
人の評価に自分を委ねてはだめ」
「初めから あてのないことをしているのだから、
迷うことを恐れず、ひたすら手を動かしながら、考えることです」

 

もうこのあたりは、心にビンビン響く珠玉の言葉が次々と。
これらが、実際にかの子が言った事なのか、
脚本・大森寿美男さんの創作なのか、は分からないけれど、
寺島さんが、しっかりと自分の言葉にして、
ものすごく説得力のある強い話し方をするので、
強烈にこちらに伝わるものがありました。

 

一平とかの子が日本に帰る日。太郎が一平に言う・・
「いままでお父さんはお母さんを食べて来ました。
今度はお母さんがお父さんを食べる番です」
・・実は初見では、
ここで私の思考はほとんどストップしてしまったんですが・・
「食べる」ってどういう意味なんだろう・・と・・

 

ともあれ、一人パリに残った太郎は、孤独の中で、
ピカソの絵と出逢い、ジョルジュバタイユの思想と出逢って、
徐々に何かを掴みかけて行きます。

 

このあたりの‘揺れる太郎’を、
濱田くんが、実に骨太に、そして緻密に演じています。
(彼の気持ちに添うようにカメラも揺れるので、
太郎の寄る辺(よるべ)なさが増幅)
彼ぐらい若い俳優さんで、これだけ複雑で歯ごたえのある役を、
こんなに的確に自分の内に引きずり込んで演じられる人は、
それほどいないんじゃないでしょうか。
(また惚れ直す私)

 

一方、万博間近の太郎さん(松尾スズキ)は・・
丹下健三小日向文世)の設計したメイン会場の屋根に、
巨大な穴を開けて、塔を建てることを提案、
丹下と真っ向から対立することになります。

 

だけど、太郎も凄けりゃ、丹下も凄い。
丹下の部下・倉田(近藤公園)がゴミ箱に捨てた
太郎の塔の絵を見て、かすかな可能性を見出す、ってところも
ザワザワしたんですが、さらに・・

 

丹下が太郎と電話で話している。
「私はこれまで、
芸術というものは、建築の中にしか存在し得ないと思っていた。
建築家が芸術家を食うものだと思ってきた。
それが、食い破られるとは思わなかった。
あんな大穴を開けるのは、構造上とても危険なんだよ」
「だから、俺にしか思いつかなかった」
「うん、だから、太郎さんじゃなきゃだめだったんだ」
「やっぱり、食われたのは俺だろう」
う〜ん、このやりとりがね〜、本当に凄かった!

 

食うか食われるか・・
しっかりとした「自己」を持った者どうし、
相手に対し、相容れないものを感じながら、
どこかでお互いの凄さを認めて行く。
認めたものを貪欲に自分の中に引き入れて、自分のものとして吸収する・・
そうやってひとまわり大きくなった自分を、また相手が吸収して行く・・

 

相手の存在が、自分を高め、自分の存在が、相手を高める。
でもそれは、ライバル、という向き合った関係ではなく、
向かう先は、もっとずっと高いところにあって、
その遥かな到達点をひたすら見据えつつ、
食い食われながら共に登って行く・・

 

たぶん、一平と かの子も そうだったのかな、と。

 

日本に戻って来たかの子は、精力的に小説を書き始めます。
敏子(常盤貴子)が想像するように、
おそらくそこには、一平の全面的な協力があったに違いない。

 

二人はようやく、
お互いの中に自分の居場所を見つけたのでしょうね。
素直に一平に甘えるかの子と、やさしく肩を抱く一平と・・
そこに至るまでの道程が、
あまりに厳しく切なくつらいものだっただけに、
観ているこちらの胸にグッと来るものがありました。

 

そうして、かの子の死・・
それが、パリにいる太郎にどれだけの衝撃を与えたのか、
計り知れないものがありますが・・
私はやはり、一平の気持ちに添わずにはいられなかった。

 

芸術家になることを諦めて以来、
彼の中のかの子は、女神のように神聖な存在になった・・
「手も握ってくれない」と語るかの子に、
寂しさを強(し)いてしまっていると知りつつ、
彼は、自分では決して、
かの子の芸術家としての飢餓を埋めてやろうとはしなかった。

 

おそらく、ついに最期まで、
「愛する女性」として正面からかの子に向き合うことを
しなかったであろう一平が、
彼女の大好きだった赤い薔薇でその遺体をうずめながら、
死んでようやく強くしっかりと手を握ることが出来た、
そのシーンを観た時に・・
岡本かの子という女性を、最期まで「芸術家」として愛し、
芸術家としてのかの子にすべてを捧げ、
自ら食われることで、彼女をより高みへと押し上げることに幸せを見出した
一平の、深い深い想いが一気に押し寄せて来て・・

 

そしてさらに、
そういう二人の生き方を、すべて許し認め愛し、
そうして自分がここにいる、とでもいうような、
太陽の塔を見つめる太郎(松尾)の表情の雄弁さに、
胸をギュッと掴まれて・・

 

何だか今回も、私は、
半ば呆然としたまま、このドラマを観終えたのでした。

 

    *

 

―――以下、田辺ヲタのひとりごと。

 

岡本一平田辺誠一に、と考えたスタッフの狙いは
どこにあったのだろう。

 

田辺さんが今まで演じて来た役を思い出す時、
女性と正面から相対するものが、意外と少ないことに気づく。
圧倒的に多いのは、
愛する女性を、隣で、あるいは斜め後ろで、
見守り、支え、そっと後押ししてくれるような存在。
女性は、その力を得て、
直面する問題や、望む未来に向かって、一歩を踏み出す。

 

田辺ファンとしては、
相手役とガッツリ組んだラブロマンスを観てみたい!
というのは、ず〜っと前から願っていることではあるんだけど、
こういう「女性の肩越しにいて支えてくれるいい男」
(しかも、そこに収まるまで、本人は相当の葛藤あり、だったり)
ってポジションも大好物wの私としては、
今回の一平役が田辺さんに与えられたことは、
本当に素直に嬉しかった。

 

寺島さん演じるかの子の個性が強烈だったために、
田辺さんの一平は影が薄い、
と感じた人も多かったかもしれないけれど、
私は、
かの子を愛していながら、
彼女を女性として見ることを自らに封じた一平という人物の、
一種の「純愛」を描く上で、
田辺誠一が持つ、独特のあの‘質感’が必要だ、と
スタッフがそう思ってくれたのだ、と信じたいし、
田辺さんは、その期待に十分に応えてくれた、と思っている。

 

そして、かの子の死以後、の一平を、
今後、田辺さんはどう演じてくれるのか、を、
より興味深く見届けたい、と思う。
(そこにこそ、この俳優の真価があるようにも思うので)



▼第3回/戦友    投稿日:2011年 6月 7日(火)
う〜ん、やっぱり凄いなぁ、このドラマは!
1回から4回まで合わせても、わずか3時間半ぐらいしかない。
それなのに、「岡本太郎」という人間の生涯を、
周囲にいる人たちを含めて、こんなに密度濃く描いてくれる。
たとえば、大河ドラマが1年かけてやる・・というか、
1年かけてさえ、十分に描き切るのが難しいかもしれないことを、
わずか4回にギュッと凝縮して魅せてくれる。

 

3回〜4回を通して一度、
引き続き、3回を二度観直したけれど、
こんなに何度観ても面白いドラマは、本当に久しぶりです。
こういう作品に出会えることは、
ドラマ好きにとって、本当に幸せなことだと思います。

 

さて、第3回は、
戦争が始まって、太郎が日本に戻って来るところから始まります。
戦時中の太郎を演じている濱田岳くんから、
戦後の太郎を演じる松尾スズキさんへの移行がスムーズで、
すんなり違和感なく入って行くことが出来ました。

 

そして、ほどなく、
生涯のパートナー・敏子(常盤貴子)との出逢い・・

 

以後、どちらかと言うと、敏子目線で、
二人の不可思議な関係が描かれるのですが、
それが、このドラマに、2回までとは違った視点をもたらしていて、
新たな面白さに繋がっていたように思います。

 

敏子がリスペクトし、
太郎に興味を持つきっかけともなった、
太郎の亡母である作家・岡本かの子寺島しのぶ)の存在。
彼女の強烈な個性と思想が、今も、太郎を侵食している。
そのことが、敏子と、他ならぬ太郎自身を、
長い間苦しめることになります。

 

太郎が「同志」と言ってはばからないほどの、
母親・かの子との強い繋がりは、
彼女の死後もなお、太郎の中にしっかりと生き続けているのですが、
それゆえにまた、「一流の画家でなければならない」という
呪縛から、どうしても逃れられない・・

 

戦争に負け、0(ゼロ)になってしまった日本は、
すべてに「non!」を突きつけられた状態に他ならない。
心のどこかで望んでいたはずのそんな世界に、
ゲイジュツカとしての居場所を何とか見つけ出そうとしながら、
一方で、深い闇に取り込まれてしまう太郎。

 

「絵なんか描かなくたって俺なんだ、
絵描きでなくたって岡本太郎でいたいんだ」という太郎の葛藤は、
そのまま、彼の間近にいる敏子にも伝播し、
彼女は、自分が、太郎の中に
どういう存在価値を見出して行けばいいのか、悩みます。

 

・・このあたりまで、すごくテンポが速い。
だけど、伝わって来るものは確かで、深いです。

 

ただ・・
太郎と敏子の関係性が密になるにつれて深まる苦悩を、
松尾スズキさん、常盤貴子さんが、
俳優としての感性をフルに使って浮き上がらせ、
カメラがまた、
そんな二人の表情を余さずすくい取ってくれるものだから、
観ているこちらまで追い詰められているような気がして、
非常に息苦しかったのも確かで。

 

そんな時、敏子は、太郎とともに、
太郎の父・一平(田辺誠一)を訪ねるんですが・・

いや〜、ここで一気に息がつけましたね、私は。
身も心も軽くなった気分になれたw。

 

かの子の死後、
ごく普通の女性と再婚し、岐阜に疎開した一平は、
子供を4人ももうけ、日焼けした顔で、
「身を削るような‘芸術’」とは縁遠い田舎暮らしを満喫!w

 

あのダンディな一平さんはどこに行ったんだよ〜!
かっこいい一平を返せ〜!(私の心の叫びw)

 

しかし、そんな一平を、
決して「けしからん」とは思えなかった。
かの子との日々が、自分の一生分を使い切る程に密度濃く、
何もかもやり尽くした、と思えたからこそ、
彼女が亡くなった後は、
未練なく、スッパリと新しく生き直そうと思えたんじゃないか、と。

 

敏子は、そんな一平から、
芸術家である(あろうとする)パートナーへの向き合い方を、
こう諭されます。
「どんなに寄り添っても、向こうは孤独のままだからね。
それを解消する道はひとつしかない。
私は、最終的に、自分以上に作家の岡本かの子に賭けたんだ。
そして、私が賭けた岡本かの子に、かの子自身も賭けた。
そうやって、ひとつのものに賭けるしかないんだよ。
生身の人間関係を捨てて、
同じ作家として、彼女のためなら死をもいとわない覚悟をしたんだ。」
「生身の男と女では愛し合えないんですか?」
「結局、人の愛し方というのは、
その人間の意志というより、能力によって決まるんだ。
たとえどんなに努力しようと、
その人間にしか出来ない愛し方をするより仕方ないんだ」

 

このシーンがとても好きでした。

 

――「作家・岡本かの子」は、かの子だけでは成立し得なかった。
一平の存在があって初めて完成した――

 

一平には、その穏やかな自負と、かの子との思い出さえあれば、
芸術に何の未練もなかったんでしょうね。
かの子が生きていた間、
彼が心に燃やし続けた‘芸術’に対する情熱の炎は、
かの子の死とともに、静かに鎮火した、ということでしょうか。

 

一平の、重荷をすべておろして清々と生きるさまは、
それまでの張り詰めた場面の連続から
一時(いっとき)だけ解放されたような弛緩があって、
太郎と敏子を至近距離で追いつめる前半と後半に挟まれた、
つかの間の安らぎタイムにもなっていたような気がします。

 

以後、敏子は太郎の言葉を写し取ることに専念、
傑作と言われる『今日の芸術』を上梓。

 

それでも、太郎の中のかの子を越えることは出来ず、
自分は何をしても太郎の秘書にしかなれない、
(それ以上太郎に近づくことが出来ない)
という苦悩を抱え続けます。

 

徐々に、太郎に対して憎しみさえ芽生えさせて行く敏子。
「太郎さんを好きでなければ、太郎さんの絵も好きになれない。
岡本太郎の芸術は岡本太郎そのものなんだから!」
「だったら殺せ!」という太郎の顔に、
黒い絵の具を塗りたくり、
新しい「岡本太郎」を二人で作って行く覚悟を決めます。

 

「私は、人生から、結婚と生身の愛情を捨て去る覚悟をした。
岡本太郎を 共に作る覚悟をしたのだ」――

 

いや〜、今回も、本当に53分の内容なの!?
ってぐらい密度濃かったです。
おかげで感想書くのに えらく時間がかかってしまったw。

 

俳優さんたちについて。

 

松尾スズキさんの太郎には、
どんなに自信に満ちた力強い言葉を発しても、
見せかけの陽の中に滲む‘陰’があり、
確実な着地場所を見出せない浮遊感があり、
実際の太郎もそうだったんじゃないか、と思わせるものがあって、
そこが、私には、非常に魅力的に思えました。

 

対する常盤貴子さんがまた、
ものすごく役に入り込んでいて、
これほど彼女の真の魅力を捉えた作品は、
ここしばらくなかったんじゃないか、と思えるぐらい素敵で、
私としては、この役は、彼女の代表作のひとつ
と言ってもいいんじゃないか、と思いました。

 

さて、田辺誠一さん。
陽に焼けて、シミだらけになって、
松尾スズキさんの父親、というかなり無理のある設定なのに
たいした違和感もなく・・w

 

・・もう一回言わせて!
岡本かの子を支え続け、愛し続け、
彼女の死の際には、赤い薔薇を買い占めて棺を満たしたという、
ダンディでかっこいい一平はどこ行ったんだよ〜!(爆)

 

う〜ん・・しかしその一方で・・
一平の この身軽さ、柔軟さ、洒脱さ、
さらにその奥にある翳(かげ)りや、一心一途な愛し方・・
‘だからこそ’の田辺誠一だったのだなぁ!と、得心もするのですよね〜。

 

敏子の苦悩を描くことによって、
一平の、描かれなくて物足りなく感じていた部分が
徐々に埋められて行く・・
彼もまた、敏子と同じように苦しみ、悩んでいたに違いない、と、
やっと、飛び飛びにしか描かれなかった一平の全体像が、
見えて来たようにも思えました。

 

そうして・・
太郎とかの子が「同志」なら、
かの子と一平、太郎と敏子は一体何なのか。
考え続けて辿り着いたのが・・

 

今回のタイトルにもなっている、「戦友」という言葉でした・・・


▼最終回/芸術は爆発だ   投稿日:2011年 6月20日(月)
岡本太郎の「過去」と「現在」を交互に描き、
1回から3回にかけて徐々に歩み寄って来た時間軸は、
最終回の「現在」(=万博開催時)で完全に重なることになります。
初回と同じシーンを使ってるところがあるんですが、
そのあたりがね〜、
すべてのピースがカチッカチッとうまく嵌(はま)って行く感じがして、
非常に心憎い作り方だと思いました。

 

今回、私が一番印象的だったのは、「黒い太陽」のエピソード。

 

太郎(松尾スズキ)の万博の仕事が多忙になるにつれ、
敏子(常盤貴子)は、
置いてけぼりにされたような寂しさを味わうようになり、
太郎と共に「岡本太郎」を作って来たという自負も揺らぎ、
思い余って丹下(小日向文世)を訪ねるのですが、
「あの塔は太郎さんにしか作れない。あれを見て世間は笑うかもしれない。
それだけとんでもないものを作ろうとしているからね。それが信じられない?」
と諭されます。

 

沈んでいる敏子を見かねた太郎は、
多忙にもかかわらず、芸術誌の連載の仕事を請けます。
このあたりの、敏子へのさりげない心遣いにもグッと来るのですが、
その後、敏子の前で、太陽の塔の背に、黒い太陽を描き入れるところは、
不器用な太郎さんの渾身のラブコールにも思えて、
何だか妙にときめいてしまった。
「太陽にだって、光もあれば影もある。
光が生きれば、影だって生きて来る。同じように影だって燃えてるんだよ」
「敏子、おまえは岡本太郎のシャーマンだろ?
丹下にくだらんことを聞くんじゃない」

 

しかし、晩年、アトリエを閉じることになった時、
万博の頃から太郎の弟子となった倉田(近藤公園)に
敏子はこう言われるんですね。
太陽の塔は先生の自画像。岡本太郎そのもの。
背中にある黒い太陽の顔、岡本かの子さんじゃないか、
って聞いたことがあります。
先生、否定しませんでした。で、やっぱりそうか・・って」
この直後、敏子は、
パーキンソン病で余命幾ばくもない太郎の首を絞めようとするんですが、
ここがね〜、もう、どうしようもなく切なかった。

 

太郎は、黒い太陽は敏子である、と思って描いたのだろうし、
もちろん、敏子も、そう思っていたと思うけれど、
それじゃあ なぜ太郎は、倉田の言葉を否定しなかったのか。

 

脚本の大森寿美男さんは、
風林火山』の時に「親切で分かりやすい脚本を書こうとは思わない」
というようなことをおっしゃっていたのですが、
今回もあまり親切に説明してくれてはいないですよね。
だから、受け取り方は観る人さまざまでいいのかな、と思いますが、
私は、やはり、太郎の中に、
そう思われることが嬉しい気持ちがあったんじゃないか、
という気がします。

 

自分の中にかの子がいる、
かの子の存在を自分の中に見出してもらえることの喜び、が、
太郎が否定しなかった理由じゃないのか、
それは、敏子をないがしろにしている、ということじゃなく、
太郎が生涯抱き続けた「母親」への飢餓感が、
ほんの少しだけ埋まった、ということじゃないのか、と。

 

しかし、敏子にとっては、
ずっと傍にいて一緒に血を流しながら「岡本太郎」を作って来た、
男と女の垣根を越えて、ひたすら尽くして来た、
そんな自分の唯一の「自己証明」として支えにして来たものを
否定されたような気持ちになったのではないか・・

 

敏子が泣きながら太郎の首に手を掛け、力を込める・・
弱々しい太郎が、彼らしい仕草で敏子を驚かせようとする・・
それは、まるで、前回から引き続いた、
敏子(常盤)vs太郎(松尾)の、‘最期のバトル’のようにも見えて、
何だかやっぱり二人とも凄まじかったです。

 

かの子(寺島しのぶ)にしても、敏子にしても、
このドラマの女性陣は本当に強いです。
それに比べて、男性陣は、太郎にしても、一平(田辺誠一)にしても、
どこか一歩引いている感じがする。

 

でも、太郎の、
少し離れた場所からシニカルに世間を見渡す、
風刺の効いたその視線は、まさしく一平から受け継がれたものだし、
芸術に対する逃げない姿勢と、反骨精神は、
かの子によってもたらされたものだし。

 

弱いところも、強いところも、みんなひっくるめて、
やはり、岡本太郎は、紛れもない「一平とかの子の子」なのだなぁ、と。

 

しかし、それは、特別な「血」としての繋がり、というよりも、
太郎に対して、自分の持っているもの(才能や生きざま等々)を
すべて明け透けに開放して見せ、感じさせ、
結果、二人の‘すべて’(良いところも悪いところも)の中から
太郎自身に取捨選択させて、自分のものとして受け入れさせた、
かの子と一平の、そういう「環境の作り方」によるもの
だったのではないか、という気もしますが。

 

その、「一平とかの子が太郎の中に生きている感じ」が、
大人になった太郎からじんわりと伝わって来たのも、
何だか嬉しかったです。

 

俳優さんについてですが、
常盤貴子さんも良かったですが、
今回は、もう、松尾スズキさんに尽きます。

 

前回まで観て来て、
正直、そこまで太郎氏に似せようとしなくてもいいだろう、
大袈裟過ぎるんじゃないか、と思うところもあったのだけれど、
今回の松尾さんを観ていたら、
岡本太郎が「岡本太郎」というキャラとして演じていた部分を、
あえて「岡本太郎」の‘形態模写’をすることで
表現しようとしたのかな、と。

 

そして、それは、
敏子と共に「岡本太郎」という強烈なキャラクターを作り上げ、
自ら‘道化’となって、恥をさらしてもテレビに出続けた
岡本太郎という‘表現者’に対する、
松尾スズキの、同じ表現者としてのリスペクトだったようにも思えて。

 

誰が演じても違和感があっただろう岡本太郎を、
あえてその違和感を大切にして演じ、
やがて自分のものとして静かに消化してしまう・・

 

う〜ん、やっぱり、松尾スズキという俳優さんも、
不思議な魅力を持っているなぁ、と改めて。
けっして器用な上手(うま)さは感じないんだけれどもw。

 

あと、今まで脇の人たちについてあまり書いてこなかったけれど、
(かの子と一平と太郎と敏子だけで精一杯だったw)
松尾さんの周囲を、
同じ劇団(大人計画)の正名僕蔵さんや近藤公園さんが
固めていたのが、微笑ましかったです。

 

それと、何と言っても、
小日向文世さんと西田敏行さんの存在が、
主要4役に劣らないぐらい、すごく大きかった気がします。
ガンガンぶつかって来る太郎に対して、
丹下(小日向)は、常に冷静な‘大人’のふるまいだったし、
坂崎会長(西田)は、逆に‘子供心’がある、というか、
いちいち面白がってる様子が可愛くてw、
太郎は、本当に「人」に恵まれていたんだなぁ、と思いました。

 

最終回まで観て来て思ったこと。
私が感じたこのドラマの最大の魅力は、
「登場人物の複雑な感情は、台詞という言葉だけを
頼りにしなくても、こんなにも深く表現出来るのだ」
(もちろん、まず脚本がいい、というのは大前提だけれど)
ということを、再発見出来たこと、だったように思います。
しかも、それを、このドラマで何度も何度も感じることが出来た・・
出演者すべての人に感じることが出来た・・
スタッフの力量を信じることが出来た・・
それは、TVドラマファンとして本当に嬉しいことでした。
こういうドラマが、もっともっと増えて欲しいです。

 

     * * *

 

「この万博を、全世界の人類が誇りを感じるような祭りとしたい。
私は、世界を回ってこう呼びかけるつもりです。
あなたの国で、まったくお金にならない
‘生きる喜び’を提供して欲しいと。
そう言われて、今の日本はいったい何が提供出来るのか。
私は、日本人として、そこで世界と闘いたいのです」
と、太郎は言いました。

 

太陽の塔がなければ、
万博は、ただの文明賛歌で終わっていたかもしれない。
自然への深い畏(おそ)れと祈りを込めた「祭り」ではなく、
ただ楽しく浮かれ騒ぐだけの「お祭り」になってしまったかもしれない。
明るくて豊かで快適な世界のみを「良し」とする万博に、
太郎が突き刺した「太陽の塔」という鉄槌は、
万博を訪れた人々の足を、一瞬留め、
前に進むことだけが素晴らしいのか、と考えさせる
きっかけにもなったような気がします。

 

しかし、残念ながら、それも長くは続かなかった。

 

「太郎の塔」に込められた畏怖と祈りを忘れ、
経済的・物質的文化(文明)への道を
再び ひた走って来た人間たちは、
この先、いったいどこへ向かって行こうとしているのでしょうか・・

 

太陽の塔は、
その行く末を、じっと見つめているような気がします。