『龍馬伝』(第21回/故郷の友よ)感想

龍馬伝』(第21回/故郷の友よ)感想
いや〜なんて面白いんでしょう、今年の大河ドラマは!
twitterはてなハイク)では何度か感想を書いてたのですが、
今回は、140字では到底収まりそうにないので、
本当に久々に(なんと初回以来!w)
こちらに感想を書かせてもらおうと思います。


仕事の関係で、全体の半分ぐらいしか観ることが出来てないんですが、
そんな中で、文句なく「今まで一番面白い!」と思ったのが、今回でした。
何だかねぇ、とにかくすごかった!です、
観ていて、何度心の中で感嘆符「!」が踊ったか分からない。


正直言うと、私は、今まで、どうも大森南朋さんの武市半平太
のめり込むことが出来なかったんですね。
もちろん、彼の演技は素晴らしかったんですが、
私の中で、勝手に、
武市半平太は、無条件で人を惹きつける「純粋な何か」
坂本龍馬とはまた違った形の)を持っている人、
というイメージが出来上がっていたので、
武骨で地味で重々しくて、まるで石みたいな(妄言多謝!)
大森・半平太には、イマイチ惚れ切ることが出来なかったんです。

だけど・・
今回の、武市と妻・冨の最後のシーンを観ていて、
その石の表面が、ポロポロと崩れ落ちて、
中から、やわらかで優しい心根こころねが浮び上がって来た時に、
何だかもう、本当に、大森南朋という俳優さんが演じて来た武市の、
一番核になる部分はここに隠されていたんだ!と、
ひとりで勝手に納得して、感動して、じんわりと泣かされて。


奥さんの奥貫薫さんがまた、
武士の妻としての奥ゆかしい佇まいを最後まで崩さなくて、
夫の登り詰めて行く姿も、堕ちて行く姿も、
ただひたすらに信じて、受け止めて、愛して愛して・・


そんなふたりが、向き合って、ゆっくりと朝餉をとる。
初めて、自分の弱さをさらす武市と、
それを慈悲深く包み込む妻と。
これからは、こんなことをしよう、あんなことをしよう、と、
ようやくふたりの静かな時間が訪れた時に、
容堂公(近藤正臣)からの容赦ない追っ手が・・(泣)

本当にね、こういうのがドラマの醍醐味なんだと思う。
脚本と、演出と、スタッフと、俳優が、相乗作用を起こすと、
こんなに美しくて深いシーンが生まれるんだなぁ!


そして、以蔵(佐藤健)。
『IZO』(劇団☆新感線の舞台。以蔵は森田剛)では、
まさに、最初から最期まで、ずっと野良犬 だったけど、
この子(とあえて言うけどw)は、ずっと武市の飼い犬だった。
もう本当に盲目的に武市を慕って言うことをきいて、
自分じゃ何も考えてなくて。

そして今・・
飼い主に捨てられた飼い犬が、野良犬になる悲劇を、
佐藤くんは、全身で表現してくれている。
何だか、IZOとは違う哀しさや切なさを、じわじわと感じてしまった、
あのオドオドした眼と「りょうま〜っ」と叫ぶ声に。



その龍馬(福山雅治)は、
何とかして武市を救いたい!以蔵を救いたい!と、
土佐に戻ることを、勝海舟武田鉄矢)に願い出るんだけど、
「おまえが行ったってどうにもならない」と諭される。


龍馬が、自分なりの攘夷を見出すシーンもそうだったんですが、
彼が勝にぶつかって行く、それを勝が返す、というところで、
龍馬にも、観ているこちら側にも、
本当にスコーンと気持ちよく抜けて行くものがあるんですね。

勝の言葉は、迷った者、悩んだ者が、
実は、自分周辺の小さいところにしか眼や心が届かない、
もっと俯瞰で見ると、いろんなものが見えて来る、
その「全体像を把握する必要性」を、示唆しているようにも思える。

よく「もっと視野を広げて見ろ」というけど、
勝は、そう言うだけじゃなくて、
そのやり方を、具体的に教えてくれている、
だから、もやもやしたものがスコーンと抜けたように感じるのかなぁ・・
・・と、これはあくまで私の捉え方に過ぎませんが。


「全体像の把握」というところでは、
長次郎(大泉洋)の存在、というのも、大きい気がします。
あのくりっとした眼wで、彼は、実にしなやかに、したたかに、
世の中の不条理に対する彼なりのファイティングポーズを取ってる。
龍馬が、さまざまなことに苦しんで悩んでいる間に、
彼は、流れる歴史の中の、揺らがない何か、に辿り着いている。


あの日、僕らの命はトイレットペーパーよりも軽かった』とか、
わが家の歴史』でもそうだったけれど、
大泉さんが演じる人間って、時代とか時間とか、そういうものを、
どこか他の登場人物とは違うところから見ているように思われます。
う〜ん、例えるなら、妖精パック・・って感じ?
いや、反論多数かもしれませんがw。


で、世の中の喧騒をよそに、
あいかわらずくすぶっている弥太郎(香川照之)。
いや〜、でもね、ほんと この人を見てると、
「庶民」というものの狡(ずる)さとか、いい加減さとか、
でもどこか愛嬌があるところとか、が的確に表現されていて、
憎々しいんだけど、憎みきれないんですよね。

道で偶然武市とすれ違った時、
彼らしい皮肉めいた言葉で、彼らしく武市を救おうとする、
ここもまた、とてもいいシーンだったように思います。


そして・・
材木が売れないことを、人のせい、世の中のせいにしていた彼が、
ついに「商売の極意」に辿り着く場面。

これねぇ、たとえが悪いかもしれないけど、
ガラスの仮面』で、ヘレンが井戸の水に触れて、物にはみな名前がある、
ということに初めて気づく、あのシーンを思い出してしまった。

つまり「閃き(ひらめき)」ってやつなんだけど。

隙間だらけの家に行って材木を売ろうとするんだけど、買ってもらえなくて
そこらへんのニワトリやイヌに当り散らして(家畜たち名演w)
で、ハッと閃いて言う、俺が修理するから材木を買ってくれ、と。

彼は知る、買ってくれない人を怨むより、
買ってくれる方法を見つけ出せばいい。
物を売るためには、おまけに心を付けることが必要だ、と。


いや〜、ここが私にはすごく興味深かったですね。
売れないことを人のせいにしていた弥太郎が、
ついに、商売には何が必要かを悟る、
そうして、あんなに売れなかった材木が売れるようになる・・
今後の彼の行くべき道が見えた瞬間、だったように思います。


まぁ、こんなふうに、ひとりひとりを観て行くと本当に魅力的なんですが、
実際に時代を動かす政変、みたいなところ、
つまり、マスとして変化して行くシーンは、ちょっと物足りなかったかなぁ。
八月十八日の政変、とか、あんなもんじゃなかったと思うんですが・・
(まぁ、あそこで天地人みたいなCG出されても困るけど)
う〜ん、そこまで求めるのは、貪欲過ぎるでしょうか。