『小公女セイラ』(第5話)感想

小公女セイラ』(第5話)感想
いったい、脚本や演出がこのドラマで伝えたいことは何なのでしょうか。
今さら感のある古びた題材を あえてドラマにして、
マンガナイズされたベタな空間の中で、
登場人物を分かりやすく記号化して・・
それだけでもう拒否反応がたくさん出るかもしれない、
そういう危険を冒してまで訴えようとしているのは、
いったい何なのか・・?

 

5話まで観て来て、これは一種の寓話なのかなぁ、と思いました。
ようやく仕事にも慣れ、父親の死の寂しさから何とかして立ち直ろう
としているセイラ(志田未来)に対して、
千恵子(樋口可南子)は、非情にも、
「あなたは、いてもいなくてもいい存在なのです」と言い放ちます。
この、存在への全否定は、どこか、
今の時代の子供vs親、人vs社会、が背負っている、
自分より弱い者にしかぶつけられない ゆがんだ感情だったり、
威圧感だったり、行き場のない負のエネルギーだったり、といった、
重苦しい閉塞感、ギスギスした関係性に繋がるような気もします。

 

同じ岡田惠和さん脚本の『夢のカリフォルニア』でも思ったことだけれど、
この人は、「弱い人間」に対して非常に寛大で、優しくて、
「そういうふうにしか生きられない」と思い込んでいる人たちに対して、
「勇気を持って一歩踏み出してみようよ」と、
何とかして訴えようとしているように思われるのです。

 

セイラの母・薫子(黒川智花)のように強い人間は、
誰の力を借りなくても、しっかりと正しく生きていけるのでしょう。
普通なら主人公タイプの性格であると言ってもいい
彼女のような人間の言葉が、
このドラマでは、うっとおしい優等生発言にしか感じられないのは、
実は、この脚本が、ドラマの中で最も弱い人間である、
学院長・千恵子(樋口可南子)寄りに描かれているから、
のような気がしてなりません。

 

弱い人間でありながら、権力を振りかざす強い立場にいる
千恵子や真里亜(小島藤子)、
強い人間でありながら、自分の中の弱さと直面させられたセイラ、
もともと弱い立場のカイト(林遣都)やまさみ(岡本杏里)・・
それぞれの立場で、それぞれに新しい一歩を踏み出して行こうとする彼ら。
決して「いてもいなくてもいい存在」じゃない、
誰かが誰かを必要とし、誰からか必要とされている、
と気づくまでの物語・・
傍観者である亜蘭(田辺誠一)や笑美子(斉藤由貴)やかをり(忽那汐里)が
そこに、どのように絡み、道筋をつけてあげるのか、
今後も楽しみなドラマです。

 

★登場人物について。
セイラも千恵子も笑美子も良かったんですが、
今回はなんと言ってもカイトに尽きます!
いや〜、遣都くんはどこまで行っても遣都くんだね。
観ていて、なぜか『仁〜JIN〜』の大沢たかおさんとかぶって仕方なかった。
どんなとんでもない展開でも、きちんと自分を乗せられる、というか、
ある意味、田辺さんの亜蘭あたりとはまったく正反対の作り方、というか。
・・いや、たぶん、彼らは、役を作る、って考え自体、
持ち合わせていないのかもしれない、なんてことを感じてしまいました。

 

で、その遣都くんや大沢さんとは正反対の田辺さんですが・・
いや〜、前から感じていたことですが、この人の亜蘭は本当にすごいね。
「田辺〜、こんのやろうっ!」って思ってしまいましたよ、
ほんのちょっとしか出てなかったのにw。

 

「二枚目の立ち位置って、
コメディにするしか役に立たないじゃないですか(笑)。
見た目が美しいだけなら、
十代の子のほうが研ぎ澄まされた美しさがあるわけだし。
もはや二枚目だけじゃ腹いっぱいにならないわけで。
ありがたみないでしょう?
だから二枚目って役柄が来た時は、逆におかしみを探してしまいますね。」
(@hanakoWEST/2006.6)

なんてことを言ってた人が。
今、中身のまったくない(今のところはまだ)絵に書いたような二枚目を、
逃げずにちゃんとまっすぐに作ってるように感じられるのが、
楽しくて嬉しくてしょうがない。