小公女セイラ(talk)

2009・10-12放送(TBS系)
★このトークは、あくまで、翔と夢の主観・私見によるものです。

  
夢:ものすご~くバラエティに富んだ充実した一年の締めくくりが、『小公女セイラ』の亜蘭先生というのも、なかなか感慨深いものがあるよね。
翔:田辺さんらしい、と言えば、らしいな、と。(笑) 
夢:いや~、久々のフワフワ感が心地良かったですわ。(笑)
翔:マンガ原作のドラマだって、ここまで夢々しい役はなかったような気がする。
夢:そうかぁ・・そうだね、確かに。
翔:田辺さんの役もそうだけど、ドラマ全体の絵面(えづら)としても すごくマンガっぽくて、最初はツッコミどころ満載だと思って観始めたのに、徐々にそんな甘いもんじゃないんだ、ということに気づかされて・・・
夢:観初めた頃は、登場人物全員安っぽいキャラ設定だな~なんて思ったんだけどね~、とんでもなかったよね。(笑)
翔:観続けて行くうちに、ドラマの芯にしっかりとした歯ごたえを感じるようになって、あとはもうグイグイ引き込まれた。 キャラクターそれぞれが、どの人も、それこそ原作のジュブナイル(少年少女)小説の登場人物のように分かりやすく描かれているんだけど、分かりやすい中にもちゃんと奥行きがあって、それが、回を重ねるにつれ、少しずつ役の中に滲(にじ)み出て来るようになって、どの役もどんどん魅力的になって行った気がする。
夢:なんだろう・・いい人とか悪い人とか、正しい人とか間違った人とか、そういう単純な分け方が出来ない気がしたけど。
翔:そうそう、マンガチックなのに、登場人物に厚みがあるんだよね。 それも、千恵子(樋口可南子)というもっとも複雑な人間がいて、その対極にセイラ(志田未来)がいて、その外側にもうちょっと分かりやすい カイト(林遣都)や同級生の真里亜(小島藤子)・まさみ(岡本杏里)・かをり(忽那汐里)がいて、またその外側にもっとも分かりやすい小悪人の管理人夫婦(大和田信也・広岡由里子)や、悪意なく救いの手を差し延べてくれる栗栖(要潤)がいて、そこに、ちょこちょことピエロのように和ませてくれる笑美子(斉藤由貴)や、最終的に物語を正しい方向に導く亜蘭(田辺誠一)がいる、という、非常にバリエーションに富んだ布陣になっていた。 だから、全体に散漫になることなく、千恵子とセイラに観る側の気持ちも引き込まれて行ったような気がする。
夢:うんうん。
翔:このドラマと同じことを伝えようとする時に、シリアスな作り方にしたら、かえってちゃんと伝わらなかったんじゃないか、って気さえした。 ミレニウス女学院という、現代の日本にはありえないだろう設定にしたことで、逆に、照れも躊躇(ちゅうちょ)もなく、まっすぐに伝えたいテーマを打ち出せたんじゃないか、と。
夢:管理人にこき使われる小間使いのカイトとか、真里亜の大きなリボンとか、そういう嘘っぽさが、よかった、と。(笑)
翔:だいたい、あの生徒数で学院が成り立って行けるはずがないんだけどね。(笑) だけど、シリアスだったら、間違いなく突っ込まれるところを、「ありえない小世界」をあえて作ることで、うまく回避している。シリアスだったら「おいおい~」と言いたくなるところも、ジュブナイルという思い切った世界観が下敷きなんだから、いいか、と。
夢:うんうん。
翔:男であり女であるという、性を持った人としての生々しさが、登場人物の誰にも感じられなかったことも、意味があった気がする。 セイラとカイトにしても、千恵子と亜蘭にしても、好きだ、という感情を、いい意味で深く(生々しく)表現することがなかった・・実にピュアな描き方なんだよね。
夢:うん。
翔:今回再見して思ったんだけど、このドラマは、伝えることをしっかり持ちながらも、一種おとぎ話のような空気感があって、観終わった後に、充実感を味わいながら本の表紙を閉じるような、幸せな「読後感」を抱くような、不思議な感覚があって、何だか私は、そのことがすごく興味深かった。 いい本をまた読みたいと思うように、時が経ったらまた観たい、と、そう思えるドラマだった。
夢:う~ん、そうかぁ・・
翔:『神の雫』も、雫や一青に 千恵子やセイラぐらいの奥行きを持たせて、きちんとした背景を背負わせて、きちんと悩み苦しみ、きちんと乗り越えさせて欲しかった、という気がする。 そうすれば、一見どんなに荒唐無稽でも、もっともっと観る側にちゃんと伝わるものがあったんじゃないか・・・なんてことを、このドラマを観て、改めて思ったりしてるんだけどね。
夢:うんうんうん。
 ★    ★    ★
夢:亜蘭先生について、もうちょっと話したいんだけど。
翔:いや~、この役をやってた時の田辺さんの思いっきりの良さが、妙に心地良くて。(笑)
夢:あ~分かる分かる。(笑)
翔:亜蘭先生のフワフワ感って、心地よいのと こそばゆいのと 半々ぐらいで、実にあやういんだけど、でも、最終的には何となく納得させられてしまう。それは、演じている田辺さんに、まったく「照れ」がなかったからなんじゃないか、と。
夢:翔は、一青(@神の雫)に通じるものがある、って言ってたよね。
翔:うまい言葉が見つからないんだけど、一青にしても亜蘭にしても、カメラの前で素っ裸になるのと同じぐらいの思いっ切りの良さがないと演じられない役だったような気がするので。
夢:素っ裸!
翔:ある意味、自分を捨ててるというか・・ねぇ・・
夢:・・・・・・・・
翔:田辺誠一という俳優自身が纏(まと)っているものが何かしら見えてしまうと、遠峰一青や亜蘭由紀夫のキャラとしての「ありえなさ」が、ドラマ世界の中で、逆に 嘘くさく感じられてしまう。 でも、少なくとも私には、一青にも亜蘭にも、それぞれのドラマの世界観の中での嘘くささは感じられなかった、実際にはまったくリアリティのない役だったにも関わらず。
夢:シリアスなドラマには通用しないけど、『神の雫』や『小公女セイラ』という世界観の中では、それが正解だった、ってこと?
翔:・・と、私はそう思った。 しかも、一青は、演じ手として役に感情を入れ込むことが出来たけれど、亜蘭の場合は、それさえも出来なかったからね。 物語の中に深く入り込まない、感情を持たない、誰の味方でもない、「ドラマ上の傍観者」としての立場を、「俳優として」表現する、その面白さが、亜蘭という役にはあった気がする。 そういう役を田辺さんにやらせようと思ってくれた人がいたことが、私としては、何だか嬉しかった。
夢:う~ん、そうか・・・
翔:もしかしたら・・
夢:・・・ん?
翔:もしかしたら、田辺さんの「役に対する精神的ヌードの姿勢」が、「固定観念に囚(とら)われない発想の飛躍」となって、ドラマや映画を作る制作側に何かしらの刺激を与えたり、新たな何かが生まれるきっかけになるかもしれない・・なんていう夢を見るのもいいかなぁ・・と。(笑)
夢:おお~、またまた、翔お得意の妄想の世界が広がって行く、って感じだね~。(笑)
翔:私としては、『神の雫』と『空飛ぶタイヤ』で一区切りついたような気がしてたんだけど・・まだまだ「田辺誠一研究」は続く、ってことなのかもしれないね。(笑)