『阿修羅城の瞳』(映画)感想

 

 これはもう、市川染五郎さんのための映画、という感じ。
すごく格好良くて、仇っぽくて、本当に最初から最後まで惚れ惚れ。
ただ、この役が、「歌舞伎役者」という
本来の彼のテリトリーに近いところに置かれたことで、
非常に強烈に魅力的になった一方で、
出門の悲哀、というか、切なさ、というか、そういうものが
「様式」としてしか伝わって来ないうらみも若干あったのではないか、と。

 

宮沢りえさんのつばき(阿修羅)は、とても可憐でいじらしい。
だけど、どうしても奈良興福寺の阿修羅像が頭から離れない身には、
鬼神・戦闘神としての阿修羅の、
闘う強さと人を寄せつけない孤独感、の混在、みたいなものを、
あの細身の身体で表現するのは、
少し無理があるようにも思われました。
何だか痛々しくて、可哀相に思えてしまって。
阿修羅城の阿修羅像、そこにかぶる宮沢さんのお顔――
あまりにも美しくて、
私には菩薩にさえ見えてしまった。

 

さて、実は一番楽しみにしていたのが、邪空。
渡部篤郎さんが演じる、ということもですが、
この役が、風左衛門に通じる、という声もあったので、どんなもんか、と。
でもねぇ・・・この邪空、あまりにも「背景」がなさ過ぎるんですよね。
「何故」という部分が、
そもそも脚本の段階できっちりと描けていないんです。

たとえば風左衛門(荒神〜AraJinn〜)には、
ああいう人格になってしまった素地、というか、
理由みたいなものが、ある程度描かれてるんだけど、
この映画の邪空には、そういう部分がすっぽりと抜け落ちてるんです。
出門と戦う意味(理由)というのが、きっちりこちらに伝わって来ない。
だから、ちっとも魅力的に見えないんですよね。

彼もまたつばきに懸想し、
鬼御門を放棄した出門に置き去りにされた恨みと淋しさを抱き、
だからこそ出門と決着をつけなければならなかった、
ぐらいの背景を、せめて背負わせてあげられていたら、
随分とこちらの心に響く役になったかもしれないのに、と、
そういう役なら、渡部さんはどう演じただろう、と、
ちょっと・・いや、かなり残念でした。
(舞台の邪空はどうだったんでしょうか)

 

映画特有のCG表現は、独特の雰囲気もあって全体的にとても美しく、
惹かれもしましたが、
逆に、そういうものを使えなくて、埋められないものがあるのを、
演技者の汗とか息遣いで観せようとする「舞台」にはまた、
映画に負けない大きな魅力があるのだなぁ、と、
皮肉にも、映画を観て、改めて悟らされたような気がします。

 

で、この作品の役をどれか田辺誠一さんに演じてもらえるなら、
邪空ではなく、ぜひとも出門の方を。
いや、歌舞伎テイストじゃ敵わないので、
現代の劇団にでも何にでもして。(笑)
田辺さんの口から一度吐かせてみたいセリフもあったりするし。(笑)