『新・近松心中物語』感想:2

『新・近松心中物語』感想:2 
何故でしょう、
「心中物語」なのに、3人の若い命が あっけなく散ったというのに、
観終わった後、私の身体の内に残されたものは、
「生への、力強い賛歌」とでも言うべきものでした。

『新・近松心中物語』は、「心中」という「死への道行き」を描きながら、
実は、「生きる物語」でもあったのではないか、
いや、ひょっとしたら「生きる物語」でしかなかったのではないか、と、
ドクンドクンと高鳴る自分の心臓の音を聞きながら、
帰り道、私は、そんなことを考えていました。

 

あの時代、生真面目な忠兵衛と女郎梅川の行き着く先は、
確かに「心中」しかなかったのかもしれない。
自分の生きるべき道が ずっと先まで決まっている、逃れることは出来ない
そうあきらめ、流されて来た人間が、
運命の人と出会うことで、本当の自分を取り戻す。
忠兵衛(阿部寛)も、梅川(寺島しのぶ)も、そこから本当の「生」を
生き始めることになる。
しかし、「本当の自分」を取り戻した時には、
深い奈落が口を開けて待っていて・・・・

 

あの時代、彼等にとって「心中」は、「命を失うこと」ではあっても、
「魂を失うこと」ではなかったのではないか。
「すべてがなくなる」ことではなかったのではないか。
自分らしく生きるための「死」、愛する人と添い遂げるための「死」。
「死んで生きる」ということも、ひょっとしたらあるのかもしれない、と、
そんなことさえ思えて、
ひたすら「死」へと突っ走る彼等に、とどめる言葉も見つからなくて。

 

忠兵衛と梅川が、心中することで見事に想いを遂げたのに比べて、
与兵衛(田辺誠一)とお亀(須藤理沙)は、なんと不器用なのでしょうか。
人を好きになることも、死ぬというのはどういうことかということも、
まったく何も解かっていない与兵衛と、
ただただ「心中」を美化して憧れている少女お亀と、
このふたりの、あまりにも幼稚な心中ごっこは、
お亀の死、という、突然の出来事から、にわかに現実のものとなり、
死なれてようやく、お亀が自分にとって大事な女だったと悟った与兵衛が、
後を追おうとして何度も何度も川に飛び込み、死に切れず、
なお川に飛び込む姿が、
私には、どんなにブザマでも、ダサくても、カッコ悪くても、
それでも生きなければならない
「生に執着し、生から執着された人間の業(ごう)」
さえも映し出しているようで、
ただただ泣けて泣けて、嗚咽をこらえるのに苦労するほど、泣けて。
与兵衛がいとおしくていとおしくて、また、泣けて泣けて。

 

失わなければ、本当に大切なものの存在にさえ気づかない
おろかな与兵衛に、
「お前は死んではならぬ」と「死ぬことは許さぬ」と、神は断を下されて、
乞食坊主に身を落としてさえ、死ねず、死に切れず、生きて生きて・・・・

このあわれなおろか者を観ているうち、いつしか私は、私自身を、
そして、今現在、
この世に生き続けようと手足をブザマにばたつかせている人間どもを、
彼に重ねずにはいられませんでした。

人は、生きなければならない。
私の命の、あなたの命の、そのろうそくが神によって吹き消されるまで、
どんなに辛くても、哀しくても、切なくても、
生きて生きて、生きぬかなければならない。おろかな与兵衛のように。

 

「寿命の来るまで、生かしといてや」
あの世のお亀にそうつぶやいて、与兵衛は人の波に呑まれて行く・・・・
その姿が、まるで、街の雑踏に立ち尽くす自分の・・誰かの・・姿に見えて、
ああ、だから演歌ではなくロックやブルースであり、
明治座ではなく日生劇場であり、
お馴染みのキャストではなく、若いメンバーでなければなかったのか、と、
そんなことをさえ想ったのでありました。

 

――ねぇ、与兵衛、生きて行くのも悪くはないよ。
  生きていれば、生きてさえいれば、きっといいこともあるだろうさ。――

最後の最後、人ごみに紛れてトボトボと消えて行く与兵衛に、
出来ることなら、寄り添って、そう言葉を掛けてあげたい!
と強く願った私。
だけど、きっと、本当は・・・・
あの乞食坊主の細い腕に、知らないうちにやさしく背中を押されていたのは
私の方だったのかもしれません。

 

★このコメントは、あくまで、翔の主観・私見によるものです。