ハッシュ!雑感:1(監督編)

ハッシュ!雑感。 (監督編) 投稿日: 2002年7月10日(水)showm
橋口亮輔監督という人が、自分の「何」を練り込んでこの映画を作ったのか、
ひとつひとつの言葉、音、画面、に、何を乗せたかったのか・・・

辿り着いた私なりの結論は、
『HUSH!』は、橋口監督そのものなのではないか、ということだった。
この映画のどの場面、どのセリフを切り取っても、
それらは、すべて「橋口亮輔」なのではないか・・・と。

 

映画に登場する女性たち、特に、エミ(つぐみ)や容子(秋野暢子)は、
橋口監督によるある種の女性への偏見(?うまい言葉が見つからない)
から生まれたのではないか、と
観ていて心が痛んだ人も、少なくないのではないかと思う。

しかし、それが、彼の内にある「女性性」から生まれたものであり、
彼女たちのセリフや行動もまた、彼自身の内部に棲んでいたものを表現した
に過ぎない、とすれば、
おのずと、あのセリフ・あの行動の意味は違ったものになる。

ああいう種類の女性に対する蔑視(と言うより反感?畏怖?)なのではなくて
彼自身の内にある、エミ的部分、容子的部分の発露。

そう考えていくと、
この映画に登場する女性たちは、皆、男性なのではないか。
男性である監督が「想像して産んだ女性」なのではなくて、
「女性性を持った男性」だったのではないか、と、
自分でも、あまりに突飛な考えにびっくりしながら、
そう思うことを止められなかった。

 

橋口監督は、この映画で、自分のすべてを見せたかった。
身体の表面だけじゃなく、全部をクルンとひっくり返して、
裏側の醜い部分、ドロドロ・グチャグチャした内臓まで全部引っ張り出して、
晒して、
そして、それらを全部、登場人物たちに分配して、この映画を作った、と、
そんな気がしてならない。

 

ものを作る、という作業は、決して楽しいばかりじゃない、というのは、
こんな小さなHPを作っていてさえ感じることだ。
まして、脚本を書き、演出をし、編集をし、そしてひとつの映画に完成させる、
というのは、どれほどのエネルギーを使う作業なのだろうか。

それでも「作りたい」と思う、その向こうに、
「自分を解(わ)かって欲しい」という切なる欲求がある、
橋口監督は、そういう欲求の、特に強い人なのではないか、と、
そんなことを思った。

 

追記。
この映画に出て来る女性は「女性性を持った男性」だ、という話をしたが、
なぜそう思ったのかというと、
この映画の女性達は、「女性」であるための、決定的な何かが足りない、
という気がしたから。
それを、監督は、‘あえて書かなかった’のか、
あるいは、‘書けなかった’のか、ということだが、
私は、何となく、その部分に関しては、監督、白旗振ってるような気がする。

女性にとって「痛い」表現も随所にあるのだが、
「ごめん、俺にはこういうふうにしか書けないわ」という、
ひたすら「ごめんなすって」状態、と言うか。

女性からしたら、「こらっ!逃げるなっ!!」と言いたいところだが、
逃げなかったら、女性のそういう部分と正面からぶつかってたら、
こんなに「個」の個性が立った作品にはならなかった、という気もして。
こんなに「男」と「女」の境目を感じさせない作品にはならなかった、
という気もして。