ハッシュ!雑感:2(作品と俳優編)

ハッシュ!雑感。(作品と俳優編) 投稿日:2002年7月12日(金)showm
私は「監督編」で、
『HUSH!』は、橋口監督そのものなのではないか、と書いた。 
そしてまた、
身体の表面だけじゃなく、裏側の醜い部分まで、全部引っ張り出して、
晒(さら)して、
それらを全部、登場人物たちに分配して、この映画を作った、とも書いた。

もちろん、これらは皆、私の主観的観方であることは、間違いないが、
そう思ったきっかけは、実は、映画を観る以前、
『HUSH!』に関する数多くのインタビュー記事を読んだことによる。
(監督が、あまりに自分の‘内部’まで晒している、と感じたので)

 

監督のそれほどの「想い」を乗せられた映画というのは、
どれほど重いものなのだろう、と、内心ドキドキしながら観たのだが、
これが、まったく、そういう「重さ」の感じられないもので、
私はそのことに、いたく感激してしまった。

「最初から、すんなりと、気を楽にして観ることが出来た」のは、
きっとそのせい(「重さ」が感じられなかったから)なのだと思う。

自分の内に渦巻くものを、ストレートにぶつける、という痛い見せ方でなく、
また、オブラートに包む、という逃げ方でもなく、
きっちりと足元を固めた上で、「楽しく観せる」作品に仕上げる、という
この姿勢・この手腕には、
「やってくれるねぇ、橋口監督〜」と、感嘆するしかなかった。

 

けれども、この映画が「こういう形」で結実するまでの、
監督と役者たちのせめぎ合いもまた、きっと半端なものではなかったろう、
とも思う。

ひとつの「役」の中に、
実際に今まで生きてきた「自分」を練り込ませる他に、
監督から託された想い(監督自身の断片)をも
練り込ませて行かなければならない・・・・
それはまるで、「二人掛かりで一人の人間を生み出す(産み落とす)」ような、
限りなく楽しく、そして、果てしなくツライ作業だったのではないか。

 

しかし、監督が、この作品を、見事に「娯楽作品」に作り上げたように、
役者たちもまた、スクリーンの上では、すんなりと役に溶け込んで、
これっぽっちの違和感も感じさせなかった。

そこに至るまでに、どれほどのものを捨てたのだろうか。
監督と、他の役者と、ぶつかり、ぶつかり、ぶつかり、
そうして削ぎ落とされた、もっとも贅肉のついていない、
演技とさえ言えないような演技を観客の前に晒す、
その時、役者は、どれほどの充足感を味わうことが出来るのだろうか。

そして、
出演者の中で、もっともそういう晒し方を不得手としていたであろう、
田辺誠一という役者は、
勝裕で、どれほどのものを得たのだろうか。

 

次回は「田辺誠一編」を。