からくり事件帖(talk)

2001・9・29-11・23放送(NHK総合)
★このトークは、あくまで、翔と夢の主観・私見によるものです。

  夢:翔、最初はこのドラマ、「興味深い、面白い」って言ってたよね。  
  翔:山田風太郎・原作ということもあるし、あの時代の有名人たちが、次から次へと登場してクロスオーバーしていくところなど、もろ私好みだったので、面白がって観ていた。
  夢:そう言えば、すごかったよね。 おりょう(竜馬の妻)に、おうの(高杉晋作の恋人)に、小政に、円朝、からくり儀右衛門、唐人お吉・・・・
  翔:黙阿弥、幸田露伴樋口一葉森鴎外・・・・
  夢:うんうん。
  翔:決してドラマの真ん中に出て来るわけじゃないんだけど、そういう人たちが、ちょっとだけ絡(から)んでくることで、興味がすごく増したし。
  夢:懐かしかったんじゃない? 昔の自分を思い出して。(笑)
  翔:そう・・ね。(笑) 昔、私も同人誌で似たようなことをやっていたから。
  夢:でも、そういう「面白い」という気持ちが、あんまり長く続かなかったみたいだけど?
  翔:第3話(写真事始め)までは良かった。 田辺さんも、明る過ぎるきらいはあったけど、すごく自然体で、無理なく兵四郎を演じていた気がしたし。
  夢:3話で、単身、川路(近藤正臣)のところに乗り込んで行くあたりは、かっこ良かった。
  翔:確かに、あのシーンは、兵四郎の内にある「侍(さむらい)」の片鱗が見えて、すごく嬉しかったんだけど・・・
  夢:なのに、途中からトーンダウンしたのは何故? 
  翔:・・・第4話(天女の用心棒)で、元会津藩の浪人が出てくるよね。
  夢:あ、ダンカンさんがやった役?
  翔:そう。 会津藩というのは、戊辰戦争の時、最後まで幕府側について、新政府と戦ったわけだけど、会津での壮絶な戦いは、白虎隊の少年たちや家老・西郷頼母の家族の自決に象徴されるように、それこそ女子供まで巻き込んで、悲惨な末路を辿る。
  夢:・・・・うん。
  翔:私は福島で生まれ育ったから、あの時代、会津の人たちが、どんなふうに戦い、死んでいったか、いくらかの知識があって、だから、特別な感慨があるのかもしれないけれど、つまり、『からくり』の時代は、それからわずか数年しか経っていない、そういう時代だったのだ、と、そう思い返した時、兵四郎の あの明るさって、「違う」んじゃないか、と・・・
  夢:・・・・?・・・・
  翔:うまく言えないんだけど・・・兵四郎は、元同心、つまり幕府側なんだよね。
  夢:・・・・うん。
  翔:もちろん、世の中が激変していた時期だから、いつまでもそんなことを引きずってはいられないかもしれない。 現に、旧幕府の人間の中には、明治政府の要人となった人もいるし、もっと身近には、このドラマに出て来るように、警官になった元新選組水戸藩士などもいたわけで、数年前の敵味方の関係なんか、何の意味も持たないということは、十分承知しているつもりだけど。
  夢:それでも、どうしても引っ掛かるものがあった?
  翔:このドラマが、もし、『竜馬におまかせ』(三谷幸喜・脚本、浜田雅功・主演)みたいに、時代劇を装った現代劇だったら、私はきっと、田辺・兵四郎に、何の不満もなかったんだろう、と思う。
  夢:・・・・・・・・
  翔:だけど、違うでしょう? 4話の元会津藩士・千葉、5話の最後の牢奉行・石出帯刀(佐野史郎)、6話の針買将馬(斎藤洋介)、7話の永岡(三村晃弘)、8話の柴五郎と会津の子供たち・・・・ 彼等が身体に染み込ませていたものを、兵四郎もまた、染み込ませていたはずなんだよね。
  夢:・・・・うーん・・・・・
  翔:それは、言ってみれば「武士の気概」のようなもの。 兵四郎は・・兵四郎こそ、「最後の侍」でなければならなかったんじゃないか。 
  今現在、芸者のヒモになっていようが、きのこ頭のプータローになっていようが、そんなことは問題じゃない。 千葉や、石出や、針買や、永岡や、柴や、そういう人間たちとすれ違った時に、元同心・千羽兵四郎なら、他の人とは違う受け止め方・・・・「深いところでの痛みを伴った共感」、と言ってもいいのかもしれないけれど、そういう特別なものが、絶対あったんじゃないか、と思う。
  だけど、残念ながら、田辺・兵四郎には、そういう「自分と同じ種類の人間への特別な想い」が感じられなかった。 「痛みへの共感」が、薄いように思われて、私としては、急速に魅力が感じられなくなってしまった。
  夢:言いたい事、分かる気もするけど、それって、田辺さんの問題なの? 脚本とか演出の問題でもあるような気がするけど。
  翔:確かにそれもあるかもしれないけど、私はむしろ、田辺さんの演じ方に納得がいかなかった。
・・・まず‘形’(外観)から行くと、基本的に、歩く姿も立ち姿も、背中に一本スジが通っている キリッとした美しさがなかった。 殺陣も、到底満足いくものじゃなかった。 だから、はっきり言って、「侍(元同心)」に見えなかった。
  夢:うーん・・・・
  翔:内面的な部分でも、さっき言ったように、出会った人たちへの、深いところでの共感がなかったように感じられた。 永岡ら不穏分子と一緒にいても、そこから伝わって来なければならないはずの危なっかしい熱さは感じられないし、柴五郎の話を聞いても、針買将馬の死に直面しても、ぶつけようのない怒りを覚える、という激しさも伝わって来なかった。
  夢:・・・・・・・・
  翔:兵四郎が、決定的なものをなくし、行くべき方向を見失っている、というのは分かるけど、だからと言って、同心として生きてきた過去が、その立ち居振舞いから消え去るということは あり得ないと思うし、武士として生きることが難しい世の中になってしまったからこそ、ウダウダしていていも、その心の内には 熱い火種を抱えていて、それをぶつける場所を見つけられないことが、彼のトラウマになってるんじゃないか・・・兵四郎って、そういう人間なんじゃないか、と、そんなふうに思うんだけど。
  夢:・・・・・・・・
  翔:戦いに敗れ、何かしらの重荷を抱え、それでもなお、必死に、自分にとって正しい生き様を追い求める・・・そういう人達とのさまざまな出逢いが、生き場を見失っていた兵四郎の心に、少しずつ蓄積されて行く・・・・
  普段は、どんなにヘラヘラしていてもいい、いいかげんでも、ちゃらんぽらんでも構わない。 だけど、ひとたび真剣になれば、そこには、熱い血を持つ「侍(さむらい)」がいる・・・・ 
  私の兵四郎像って、そういうものだったんだけど、観ているうち、兵四郎にそういう求め方をしてはいけないんじゃないか、このドラマを、そんなふうに‘重く’観るのは間違っているんじゃないか、って、自分の中で葛藤があって、ここまでの話も、こんなふうに言ってしまっていいのかどうか、悩みつつ話していた、というのが、本当のところなんだけど。
  夢:翔にしてはめずらしく、随分揺らぎがあった?
  翔:もっと‘軽く’観てしまえば、それなりに楽しかった、という感想で終わったかもしれないんだけど。
  夢:兵四郎にしても、「まったくどうしようもない軽い奴だったよね」って? でもそれって、いい意味で、田辺さんが身に付けた「演技の軽さ」に繋がるものじゃないの?
  翔:確かに、そうとも言えるかもしれない。 ある部分、その軽さで救われている、と言えないこともないし。 でも、それだけで終わらせるには、兵四郎が出逢った人達の背負ったものは重過ぎた、と思うし、出逢ったことで彼が受けた荷の重さも、そんなに軽いものではなかったはずだ、と、私はどうしても、そう思えて仕方なくて。 だから、どうしても、すっきりと田辺・兵四郎に肩入れ出来なくて、切ないんだけど・・・
  夢:・・・・・・・・
  翔:ラスト、兵四郎は、抜刀隊の一員として旅立つけれど、それもまた、ただ、やることがないから物見遊山で行く、というのとは違うはずだし、まして、死に場所を求めて行くんでもないはずなんだよね。
  夢:・・・・・・・・
  翔:彼にとって、「戦いの場」に出ることは、もう一度「侍」として生きること、自分らしく生きること・・・・
  夢:「俺は生き甲斐が欲しい。生き返ってから死にてぇんだ」・・・って?
  翔:そう。 いずれ消え去る運命(さだめ)の侍たち・・・・国が大きく変ろうとするこの時代、何かを捨てるために戦いに向かう・・・・ でもそれは、「負けた負債」を捨てるために行くんであって、決して「武士の気概」を捨てに行くんじゃない、ということなんじゃないか、と。
  夢:それにしては、田辺・兵四郎は、明るく旅立ち過ぎた?
  翔:・・・いや、明るく手を振ろうが、ウインクしようが、それはそれでいいんだよ。 だけど、そこには、絶対的な決意も潜んでいたはずだ、と思うんだけど。向かう先は、戦場なんだし。
  夢:・・・・・・・・
  翔:結局、兵四郎は、間違った選択をしているんだけどね。 ご隠居(佐野浅夫)の言うように、「戦争に生き甲斐があってたまるか!」というのが、このドラマに流れる骨子のひとつなんだろうから。
  「戦い」にあえて飛び込もうとした兵四郎を、「単純でバカな 奴」と簡単にかたづけるんじゃなく、「気持ちは分かるけど、おまえの選択は間違っている!」とこちらに思わせるだけの「無鉄砲な熱さ・激しさ」が、足りなかったんじゃないか、と、そう思う。   
  夢:・・・・キツイなぁ・・・・・
  翔:キツイよ、自分でもそう思う。
  もちろん、これは私個人の私見だから、制作側は、そんなに‘重い’メッセージを乗せようとは思っていなかったのかもしれないし、そこまで‘重く’なってはいけないドラマだったのかもしれない。 とすれば、田辺さんの解釈は間違っていなかった、ということも有り得るんだけど、ね。
  でも、私には、どうしても、「千羽兵四郎があの時代に生きていたら、一見ちゃらんぽらんに見えても、きっと、ふつふつと煮えたぎるものを身体内に宿らせていたに違いない」 と思えてしょうがないんだよね。