冬の河童(talk)

1995・11公開
★このトークは、あくまで、翔と夢の主観・私見によるものです。

 夢:ずっと観たいと思ってて、念願かなったわけだけど、どうだった?
 翔:最初に観た時の、心満たされるような感動的な衝撃を、どういうふうに言葉にしたらいいんだろう、と、ずっと考え続けていたんだけど・・・
 夢:「すごいよぉ!」って言ってたもんね、観終わってすぐ。
 翔:登場してくる全員の息遣いが、すごく間近で感じられた、と言うか、彼らの中に私もいた、と言うか、言葉とか動作とかってことじゃなく、皮膚感覚で、「わかるわかる」という感じだった。
 夢:うーん、あたしには、少々難解だったけどなぁ、正直に言うと。
 翔:その気持ちもよく分かるんだけどね。
 夢:翔が受けた「衝撃」って、いったい何だったんだろう?
 翔:今まで生きてきて、いろんなことを経験してきて、そのつど、傷ついたり傷つけたり、ということがあるじゃない? それと、たとえば、実際に経験したことじゃなくても、本を読んだり、TVとかを観たり、人の話を聞いたりして、疑似体験してきたこととか、そういう、今の自分を形作っているある部分と、すごく共鳴するものがあった。
 夢:・・・・ん~?・・・・
 翔:うまく言えないんだけど・・・・ 一太郎趙方豪)のイライラ感とか、残酷さとか、タケシ(和久田理人)のいい加減さとか、辛(つら)いことからいつも逃げているところとか、サケ子(伊藤亜希子)の、本当の気持ちを自分でも掴みかねてるところとか、自分のことしか見えないで、どんどん周りに波紋を広げてしまうところとか、すごく・・・私の中にもあるものだよな、って思った。
  けれど、ただひとり、ツグオ(田辺誠一)だけには、自分を重ねられなくて、だからなおのこと、すごく清冽で鮮烈な衝撃を受けたんだけど。
 夢:ツグオに関しては、翔は、「人間じゃない」って言ってたけど?
 翔:最初、風の子か木霊か、って思ったんだけど、今はちょっと違ってて・・・・
 夢:え?
 翔:「泣いた赤鬼」とか「ごんぎつね」とかの話、知ってる?
 夢:あ、うん。
 翔:「鬼」とか「きつね」とか、人間じゃないものが、人間と仲良くなりたくて、一生懸命努力するんだけど、そのために、一番の親友を失ったり、自分自身が死んでしまったり、という悲劇的な幕切れになる・・・・ ツグオを見てると、赤鬼やきつねの辛さ・痛さ・哀しみみたいなものを、彼もまた、背負ってるんじゃないか、って・・・・
 夢:一太郎という「人間」相手に?
 翔:一太郎には、すごく、人間の残酷さを感じる。 エゴイストで、人を傷つけても何とも思わない、なのに、ツグオの心を捕らえて離さないような音楽を奏でることも出来る、という二面性が、なおさら残酷さを際立たせているような気がする。
 夢:またそれを、すごくやさしそうに見える趙方豪さんがやってるから。
 翔:そうそう。 特に、ツグオの想いを知ってからの、ツグオに対する完璧なまでの「拒否」は、観ていて、とても辛かった。 趙さんのやさしげな顔が、まったく無表情になってしまって、怒鳴られたり、罵(ののし)られたりするのならまだしも、そういうアクションさえないから、ツグオは、なおさら辛いよなぁ、と。
 夢:・・・・・・・・
 翔:あと、ふたりって、一太郎VSツグオ、じゃなくて、人間VS他の生き物、人間VS自然、というふうにも置き換えられるんじゃないか、とか・・・ 人間代表の一太郎、一見やさしそうでありながら、残酷な一太郎と、そんな彼を、ただ一途に愛するしかなかったツグオに、いろんなものを重ねて観てしまいました。
 夢:でも、どうしてだろう? あたしは、ツグオを、人間としか見られなかったけどな。
 翔:・・・・・木と風、だよね。
 夢:木と風?
 翔:ツグオが出て来る時って、かならず、背後の木々がザワザワと風に吹かれて揺れ動いてる。
 夢:うーん、そう言えば・・・
 翔:ツグオの心が乱れている時は激しく、穏やかな時は静かに、ツグオを守るように、木々が揺れている。 これはもう、偶然じゃなく、風間志織監督は、絶対に意図的にそういう背景にしたんだと思う。
 夢:そう言えば、翔がこの映画で一番好きなシーンて、ツグオが道を歩いてきて、ふと大きな木に寄りかかって、風に身を任すところ、って言ってたよね。
 翔:あのままスーッと、木に吸い込まれて行くような気がした。 で、風の精か木霊か、という発想になったんだけど。
  本当に辛い時、母親の懐(ふところ)に抱かれたいと思うように、ツグオは、ああやって、木のぬくもりを感じながら、風に包まれて、傷をいやしていたんだろうなぁ、って。 ――木や風や、そういう自然のものに守られている、という感じ?
 夢:なるほどねぇ・・・・
 翔:だから、後半、ツグオが部屋の中をのぞくシーンがあるんだけど、部屋の中から見える木の枝がざわついている、それだけで、「あ、ツグオが来る」と分かって、実際、彼が出てきた時は、人間でない生き物(動物か 何かの精かは分からないけど)が、人間世界を、おずおずと覗きに来た、というか・・・とにかく、ツグオは人間じゃない!という気持ちにさせられたんだよね。
 夢:・・・・ふぅーん、そうかぁ・・・・
★    ★    ★
 夢:「ツグオの切なさ」ってあたりを、もうちょっと。
 翔:純粋にきれいで、邪念がなくて、限りなくピュアな彼が、おずおずと人間・一太郎に差し伸ばした手を、強烈に跳ね返される・・・・
  一太郎に、自分の想いを知られ、出て行ったツグオが、再び舞い戻ってきた時に、一太郎は、無表情で、ピシャリと障子を閉めてしまう。残されたツグオの表情・・・・ 雨の夜、通りかかった一太郎の車に乗るタケシ・サケ子・ツグオ。一太郎のとなりに座ったツグオの表情・・・・ 「サケ子と結婚する」という一太郎の言葉を、さやえんどうのすじを取りながら聞いていたツグオの表情・・・・
  どれほど一太郎から拒否されても、ツグオの目も耳も、五感全部、一太郎に向けられている、という、どうしようもない深い深い想い・・・・それを、捨て去るでもなく、あきらめるでもなく、ただ胸に秘めて、傷つけられるままでいるツグオが、痛々しくて、切なくて、苦しくて、泣けた。
 夢:うーん・・・・
 翔:それは、人間(一太郎)が、他の動物や自然に対して行なってきた残酷さと共通しているし、動物や自然(ツグオ)が、それでも人間を見捨てることが出来ない、愛し続けようとしている、という、遠い暗示のようにも思えた。
 夢:・・・・・・・・
 翔:ちょっと前まで、人間もまた、自然の一部だった、河童も鬼もきつねも、人間のとなりに生きていた、というようなことを、映画を観ながら、しっとりと考えていた。 それは、ひょっとすると、風間監督の意図するところとは、まったく違った感慨だったかもしれないんだけど、私には、どうしても、この映画が、人間どうしのドラマには思えなかったから。
 夢:・・・・・・・・
 翔:初めてこの映画(ビデオ)を観終わった朝、私には、こずえを揺らす木々も、雲を抱いた空も、昨日までの景色とは、まるで違って見えた。
  それは、たとえば、宮崎駿監督の「天空の城ラピュタ」を観終わったあとの空・・巨大な雨雲を見た時とか、「となりのトトロ」を観終ったあと、夕方、どこまでも続く電線を見た時とか、の感覚に、すごく近いものだった。
 夢:って言うと・・・・?
 翔:昔を懐かしむ、というような、ノスタルジックな感傷じゃなくて、もっと、自分の中にある原体験とか、どんなことに泣き、どんなことに笑い、どんなことに傷つき、どうやってここまで来たか、ということを、もう一度、自分の中で再確認させてもらった、というか・・・
 夢:今、あたしの中で「あ!」というものがあったような気がする。 でも、やっぱり、あたしには、一太郎一太郎で、ツグオはツグオ、という、人間どうしの「好きだ、キライだ」という感情の動きを、そのまま、自然に撮り溜(た)めて行った映画、という印象が強いんだけど。
 翔:いや、たぶん、それが正解なんだよね、きっと。 一太郎はもちろん、タケシも大人だし、サケ子にしても、ツグオにしても、行動としては、普通の人間のすることをして、喜んだり哀しんだりしてるわけだし。
  ツグオが、風の子や木霊や、ごんぎつねや泣いた赤鬼とダブってしまうのは、私の育った環境(と言って、特別なことはないんだけど)や、この眼で見てきたもの、のせいかなと思うし。
 夢:・・・・うん。
 翔:でも、この映画、実は、夢的な観方をしたもうひとりの自分もいるんだよね。
 夢:え!?
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 夢:あたし的に観た、って言うと?
 翔:ツグオをナマの人間として捉える、ということ。 引越しを数日後に控えた、兄弟と従兄弟(いとこ)の物語。 で、一太郎もツグオも、同じフィールドの上にいる、という・・・・
 夢:うん。
 翔:でも、そうやって観てみると、私には、どうしても、一太郎の拒絶が、本当にツグオを嫌ってのものなのか、疑問に思えてくる。
 夢:え?
 翔:ツグオの一途な感情を、一太郎は、本当にあの絵を見るまで気づかなかったんだろうか?
 夢:あ・・・・
 翔:気づいていたと思うんだよね。 でも、知らない振りをしていた。 ツグオの想いを正面から受けとめるのが怖かったんじゃないか、ツグオのストレートな感情を畏(おそ)れていたんじゃないか・・・・
  ツグオが告白しようとした時、「楽しくやろうや」と、逃げてしまった一太郎。 ――さっき、私、彼は残酷だと言ったけど、大事な部分に踏み入ろうとしない「人間の弱さ」みたいなものも、一太郎に感じて、そしてそれは、私自身が持っている弱さでもあるような気がして、一太郎には、複雑な想いを抱いた。
 夢:うーん・・・・
 翔:一太郎は、ツグオを嫌いなわけじゃない。 もちろん、ツグオの一太郎に対する気持ちが、世の同性愛のようなたぐいのものじゃなく、父親や母親や兄弟や、そういう近親者に対する情愛に近いものだ、ということも分かっている。 だけど、それでも、そういうツグオの想いを受け止められない。
  サケ子と関係を持ったことも、彼女と結婚すると言ったことも、もちろん、彼女を憎からず思っていた、ということもあるけれど、むしろ、ツグオの想いから逃げるための手段のようにさえ、思えてしまう・・・
 夢:え? いや、でも、一太郎はサケ子を好きだったんじゃないの?
 翔:ううん、一太郎が一番愛してるのは、自分自身だよ。
 夢:!!
 翔:でなければ、支えて欲しくて腕に掴まろうとしたサケ子の手を、あんなに邪険に振りほどいたりは出来ないと思う。
 夢:・・・・ああ・・・・
 翔:一見やさしそうで、頼り甲斐のあるお兄さんなのに、本当は、残酷で、自己チュウで、どうしようもない弱さを持っている・・・・だけど、そんな一太郎が、私は、この映画の登場人物の中で、一番自分を投影出来たし、一番嫌いだけど、一番好きにもなったの。
 夢:ツグオではなく?
 翔:どうあがいても、私はツグオにはなれない。 ツグオが傍にいたら、私も、一太郎のように残酷なことを言ったりやったりするかもしれない、という予感がある・・・嫌いじゃないのに、ね。
  だから、映画を観ていて、ツグオが傷つけば傷つくほど、それを感じようとしない一太郎の哀れさ、それを自分に投影してる私自身の切なさ、が増幅されて、3人分の辛さを味わうはめになった。
 夢:3人分・・・
 翔:素晴らしい作品であることに間違いはない。 けれど、私にとっては、観るたび、一太郎(=自分)の弱さが身にしみて、切なくなる作品でもある。
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 夢:キャスティングについて。 みんな、お芝居してない、と思ったんだけど。
 翔:すごく自然だった。 たとえ、どんなに芝居がうまい人でも、役に はまらなければ、演技力もムダになる。 『冬の河童』には、そういう意味での芸達者は必要なかった、という気がする。
 夢:うん。
 翔:風間監督の、俳優の素材の見極め方、感性って、すごいなと思った。 たとえば、サケ子のイノセント、ツグオの真摯(しんし)な態度、一太郎のやさしさの中にあるカチッとしたもの、なんかは、彼らが持って生まれたものに等しいと思う。
 夢:ツグオをやった田辺さんについては?
 翔:何をどうした、ということじゃなく、黙って立っているだけで、ツグオだったな、と。
  もちろん、細かいことを言えばキリがないんだけど、後半、一太郎にどんどん傷つけられて行く、それを、ただ受け止めて、寂しげに哀しげに口をちょっととがらせていたツグオを観たら、うるさいことは、何も言いたくない、と思った。
 夢:うん・・・・うん、そうだね。
 翔:ツグオの、一太郎を好きだ、という想いは、私たちが誰かを好きだ、というのと、質の違うものに感じる。 ドロドロとしたナマな恋愛感情じゃない、どこか透明で、純粋で、でも、どうしても越えられないハードルも持ち合わせていて・・・・それは、ツグオという役だったから、とも言えるけれど、それだけじゃなくて、もともと、田辺誠一という人間が内包していたもの、という気もする。 
  だからこそ、演技以前に、彼はツグオだった、ツグオそのものだった、と、そんなふうに思えたんだと思う。
 夢:・・・・何回観たの?
 翔:3回。
 夢:観るたび、印象は変わった?
 翔:『DOG-FOOD』(Creative3参照)のように、観るたび何かを発見したり、印象が変わったり、ということはなかった。 ・・・・ただ、この作品に関しては、最初に観た時の衝撃的な感動が、すべて、だったような気がする。
    お皿を一枚一枚丁寧に包むツグオ、
        風に揺れる木々の前にたたずむツグオ、
    絵にらくがきされて、本気で怒ったツグオ、
        傷つけられても、傷つけられても、一太郎から離れられないツグオ・・・・
  たぶん、この先何度繰り返して観ても、一番最初にツグオを観た時の、あの、魂を揺さぶられるような感動以上のものは、もう味わえない。 そのことが、少し・・・すごく・・・残念だな、と・・・もう一度だけでいいから、「初めてツグオを観た時の感動」を、味わいたいな、と・・・・
 夢:うわぁ、それって、贅沢だよ!(笑)
 翔:・・・そうなんだけど、分かってはいるんだけど、ね・・・(笑)