夢のカリフォルニア(talk)

2002・4・12-6・18放送(TBS)
★このトークは、あくまで、翔と夢の主観・私見によるものです。

  夢:翔夢BBSでも、賛否両論飛び出した、曰(いわ)く付きのドラマ。(笑) 
  翔:と言うか、テーマに賛同していたのは、私ひとりだったような。(苦笑)  主人公3人(終・恵子・琴美)に対する反発が、周囲ではけっこう、強かった。
  夢:・・・・正直、あたしも、歯がゆくて観ていられなかった。
  翔:そういう人、多かったみたいね。
  夢:甘いんだよね、3人とも。 観てて、すごくイライラしてしまって。 もうちょっとスピーディに成長して行って欲しいのに、なかなか変わって行かないし。
  翔:確かに、のっけから、友人の自殺に居合わせる、というショッキングな出来事を提示した割には、劇的な変化や成長が見られないから、ドラマとしては、単調で、つまらない、という感じ方をする人が多かったんだろうけど。
  夢:翔は、割と、こういう、自分のちっちゃなテリトリーで足掻(あが)いてる人に寛大な気がするけど?
  翔:(苦笑)・・・確かにそういうところはあるかもしれない。 こういうイジイジした感じに妙に馴染んでしまう自分がいるから。 
・・・たぶん、自分の少年期・青年期に重なる部分が多々あって、だから、このドラマの主人公みたいな、ちっとも前に進まない人たちに、共感を覚えるのかもしれない。
  夢:翔も、ああいう人だった、ってこと?
  翔:うーん、「ああいう人」、と言ってしまっていいのかどうか。(笑)
  ただ、すごく何かに押さえ込まれているような、羽交い締め(はがいじめ)にされているような、圧迫感、みたいなものはあったよね。 でもそれは、実は、外部から押さえられたんじゃなくて、自分自身で勝手にバリアを張っていただけに過ぎなくて、ただ、殻を破れば済むことだった、「自分で変わろうとする」ことで、ようやく乗り切れるようになった、ということもあって。
  夢:・・・・・・・・
  翔:だから、彼等が、ほんの些細なことで、つまずき、ほんの些細なことで、暗いトンネルから抜け出して行く、その感じも、良く分かるような気がするし、その、他人から見て「ほんの些細なこと」が、彼等にとって、とても大切なものだった、というのも、何となく分かる気がするので。
  夢:ふ~ん・・・・
  翔:きちんと自分と向かい合って、きちんと自分の値打ちを測れる人は、きっと、自分に何が出来て、何が出来ないか、というのも、ちゃんと分かっているんだろうね。 だからこそ、何を、どんなふうに努力すれば、自分に不足しているものを補えるか、ということも、ちゃんと理解出来ているんだと思う。  だけど、そういうことが出来ない人間・・自分を測る‘ものさし’を持たない人間は、ただ、ひっそりと膝をかかえて、ひ弱な自分に押し潰(つぶ)されそうになっている。
  夢:終や恵子や琴美みたいに?
  翔:・・・終は、ちょっと違うかな。 彼は、恵子と琴美にとっての、踏み台、というか、クッション、のような気がするし、終自身にとっては、クッションとして他の人を受け止め、踏み台として他の人を押し上げる、そういう役割を担(にな)う人もいる、それもまたひとつの生き方である、ということを知るまでの物語、という気もするけど。
  夢:踏み台・・クッション・・ねぇ・・・
  翔:ドラマの中では、スポンジ、という言葉も使われているけど、私としては、踏み台、や、クッションの方がしっくり来る感じなので。
  夢:・・・・・・・・
  翔:とにかく、このドラマは、イジイジと自分に押し潰されそうになっている3人が、何とかして初めの一歩を踏み出そうとする物語、ただ一歩、わずか一歩、を描いたものだったんじゃないか、と。
  夢:ただ一歩・・・・
  翔:ドラマを1クール作り上げて行こうとする時に、劇的な変化や成長ではなくて、こんなふうに、ほんの一歩、を描くものがあってもいい、と思う。
  夢:・・・・う・・ん・・・・
  翔:ただ、それが、多くの人に受け入れられるかどうか、愛されるかどうか、もっと俗っぽく言えば、視聴率が取れるかどうか、というのが、すごく大きな問題として残ってしまうのも、事実ではあるんだけれど。 視聴率が取れたから良い作品、とは言えないとしても。
  夢:そうだね、翔のように身に詰まされた人しか面白いと感じないんじゃないか、だとしたら、不特定多数を相手にするTVドラマというワクで放送してしまうのはどうか、という気もするんだけど。
  翔:まぁ、それを、より多くの人に「面白い」と思わせるだけの腕と熱意が、脚本・演出を始めとするスタッフに欲しい、と思うし、もちろん、擁護(ようご)側の私としても、一部の人だけの理解しか得られないみたいな、こういうドラマばかり増えてしまうのはどうか、とも思っているけど。
  夢:あ、そうなんだ。
  翔:そうだよ。(笑) ただ、作り手側として、少なくとも、TVドラマの設定に枷(かせ)をかける必要はないんだ、ということは言えるんじゃないかな。 こういう内容のものも、ドラマにしていいんだ、と。
  自分だけが納得して、独り善がりな作品を作られても困るけれど、せめて、これが自分が伝えたい世界です!と、堂々と主張して欲しい、そのぐらいの気概(きがい)を持って欲しいと思う。
  夢:観ている人たちが受け入れてくれるかどうか、ヒットするかどうか、は別にして?(笑)
  翔:・・・・(笑)   
★    ★    ★
  夢:このドラマ、内容的にはどうも重くて、あたしは好きになれなかったんだけど、キャストとしては、すごく面白い面々が揃ってたように思うけど。
  翔:そうだね。
  夢:中でも、山崎家(岸部一徳余貴美子宮藤官九郎堂本剛)の人たち、というのが、あたしは、とっても良い感じだったように思う。 正直、あまりにも「普通」なキャスティングで、いいのかい、とも思ったけど。(笑)
  翔:いや、良かったよ、その普通さが。(笑) 前に出ようとする人がいない、というか、剛くんも、ジャニーズにしては地味だし。(笑)
  夢:翔としては、そこがいいわけでしょ?
  翔:剛くんって、すごい才能を持っている人、という感じがする。 ただ、それを出し切れない状況にある、というか。 そこで悶々としている感じが、観ていると、面白い気がする。
  夢:・・・・ふ~ん・・・・
  翔:山崎家って、みんなそれぞれ「何か」を抱えている状態だよね、特に男どもが。
  夢:うん。 で、おかあさんが、そういう彼等を、がっしりと受け止めてる、というか。
  翔:うーん・・・実は、私、あのおかあさんに、どうしても感情移入出来なくて。
  夢:え? どうして?
  翔:「妻」とか「母親」って、あそこまで懐(ふところ)が深くなければいけないんだろうか、と。
  夢:・・・・・・・・
  翔:家族が、・・・いや、他の登場人物もみんな、どこか「痛み」を背負っている、そこがいい、と私は思っていて、主人公たちのように、遅々として歩みの進まない者たちにさえ、許しを与えようとしているところに、共感もしていて。
  夢:うん。
  翔:なのに、(自分に一番立場の近い)あのおかあさんだけは、まっすぐに揺らぐことなく、間違うことなく立っていて。 ・・・そのことが、「母親(妻)だけは間違えない、間違っちゃいけない」と言われているようで、すごく辛(つら)かった。
  夢:・・・・う~ん・・・・
  翔:『R-17』に出て来る、カヲルの母親(久野真紀子)の、自分のことだけに気を取られて、子供や夫を掴み切れていない感じというのが、私には、すごくホッとさせられたので。 好き嫌いの問題じゃないところで。
  カヲルの母親って、たとえば『僕の生きる道』(注・草彅剛主演ドラマ)に出て来る銀紛蝶さんのような、子供を思う余り、子供に押し付けることが多過ぎる、みたいな母親でさえない。 戸惑って、ウロウロして、ちっちゃなテリトリーの中で、右往左往している。
  夢:・・・あ・・れ・・・ひょっとして、恵子や琴美に似てる?
  翔:そうだね、近いものがあるかもしれない。
  で、話を『夢カリ』に戻すと、あれだけ寛大に、すべてのおろかな人間たちを許している岡田恵和(脚本)さんが、母であり妻である山崎響子(余貴美子)にだけは、そうでなかった、というのが、母であり、妻である私にとって、とても辛かった、ということなんです。
  夢:ふ~ん・・・・なるほどねぇ。
★    ★    ★
  夢:・・・・えっと、ここまで、田辺さんの「た」の字も出てないんですけど。(笑) それだけ、内容的なことの方が重要だった、ってことかな。
  翔:そうとも言えるし、このドラマの中の田辺さんって、すごく周囲に馴染んでいて、彼だけピックアップして、どうのこうの言うの、もったいない気がしてしまった、ということもあるんだけど。(笑)
  夢:このポジションというのが、何と言うか・・・・
  翔:中心(主人公)からひとつふたつ外れている位置、ね。 ひょっとしたら、このあたりが、演じていてすごく面白いポジションなんじゃないか、と。
  夢:終(堂本)といる時の、やる気のな~い感じが、なんとも・・・(笑)  なんか、あの、のらりくらりしてるとこがね~(笑) 
  翔:肝心なところから逃げている、みたいな?(笑)
  夢:そうそう。
  翔:まぁ、笑わせ役でもあるんだけれど、でも、それだけじゃなくて、挫折感や甘えや・・・そういう、人間の複雑な面も、ちゃんと持ち合わせていて。 岡田さん(脚本)は、きっと、中林という男を通じて、きちんと伝えたいことがあったんだろうな、という気がした。
  夢:それって、どういうものだと、翔は思う?
  翔:中林って、それまで、まったく何の挫折もなしに、すんなり生きてきたんじゃないかと思う。 一流の大学に入ることも、一流の会社に就職することも、もちろん彼なりの努力は して来たかもしれないけれど、万事要領良く、何の障害もなくクリアしてきて、それが当たり前になっていて。 ひょっとしたら「夢のカリフォルニア」はすぐ目の前に広がっている、と、そんなふうにさえ思っていたのかもしれない。
  夢:・・・・・・・・
  翔:それまでの彼にとっては、「そういうふうに生きる」ことだけが、唯一の「成功の形」だったのかもしれない。
  だけど、目の前にあったはずのカリフォルニアが蜃気楼だと知った時、思い描いた「成功の道」から外れてしまった時、自分はどうすればいいのか、ということが、解(わ)からなくなってしまった。 おそらく、リストラの対象になった時点で、彼は耐えられなかったんだろうと思う。
  夢:だから、辞めた?
  翔:たぶん、上司に食って掛かったり、同僚に不満をぶつけたりせず、まったく足掻(あが)くことなしに、これまた、すんなりと。
  夢:・・・・・・・・
  翔:きれいに、かっこよく。 「自分が人からどう見えるか」というのが、彼にとっては、とても大事なことだったんじゃないかな。 だから、自分の「かっこよさ」に惹かれて、アプローチをかけて来る清美(北川弘美)に、やばいと知りつつ、悪い気はしないから、ついズルズルと引っ張られてしまったのかもしれない。
  夢:ふ~ん・・・・どうしようもないヤツだね。
  翔:まったく。(笑)
  夢:でも、自分をかっこよく見せたい、っていうのは、何となく分かるけどね。
  翔:そうだね。 それって、みんな、少なからず持っているものだと思うし。
  夢:うん。
  翔:で、「本当にかっこいい」んじゃない、こういう「似非(えせ)かっこよさ」に縋(すが)っている、それが、正しいことじゃない、というのも、ちゃんと知ってて、時に自分自身にイライラしたり虚しさを感じたりしている、そういう役を、田辺さんがやる、というのがね、何となく、「ああ、いいなぁ」と。(笑)
  夢:うんうん。(笑)
  翔:終たち3人を主人公に据えた、そのことで、このドラマを受け入れ難(にく)く思っている人が多いかもしれないけれど、この中林という、どうしようもない、でも憎めないキャラについては、多くの人が、共感してくれるんじゃないかな、と。
  それは、中林をこういうふうに描いた脚本の力も、演出の力も、大きいには違いないかもしれないけれど、田辺誠一という俳優の「演じ方」も、大きかったんじゃないかな、と、これは、ファンだけではなく、多くの人に納得してもらえる感想なんじゃないかと思う。
  夢:・・・・うーん・・・・こうしてみると、やっぱり、このクールは凄かった。
  翔:確かに。 今まで観てきた中で、この、中林倫太郎と進藤要士(@眠れぬ夜を抱いて)を同時に観せてもらった3ヶ月が、田辺ファンである私にとって、一番密度濃い1クールだったような気がする。
  夢:うんうん。
  翔:・・・・・・・・
  夢:どうした?
  翔:・・・・・なんかねぇ・・・こういう田辺さんが観られると思っていなかったから、昔は。
  夢:むかし・・って。(笑)
  翔:(笑) ファンになりたての頃、ね。
  夢:このHP作った頃、ほんとに言いたい放題 苦言吐いてたこと考えると、確かにね。(笑)
  翔:今だから言えることだけど、田辺さんって、「監督」か「俳優」か、究極の選択を迫られたら、ひょっとしたら「監督」を選んでしまうんじゃないか、って、ずっと不安に思っていたこともあったし。
  夢:・・・・うん。
  翔:今は、きっと、「監督」も「俳優」も捨てられないだろうな、と、少なくとも、田辺さんにとって、「監督」と同じぐらい「俳優」も大切なんだ、と、言葉ではなくて、演技で・・・進藤要士と中林倫太郎を通じて、はっきりと宣言してもらえた、と、そういう気がしたから・・・・
  夢:嬉しかった?
  翔:はい。
  夢:ふ~ん・・・・なんか、いいねぇ。
  翔:え?
  夢:なんて言ったらいいだろ・・・そうだな・・・今日の翔・・「 まろやか~ 」。(笑)
  翔:!!・・・(笑)

以下は、BBSに載せた『夢のカリフォルニア』の感想です。
Re:ありがとう  投稿日:2002年5月19日(日)
私には、終(堂本剛)の甘さ・弱さがすごく気になります。
気になる、というのは、「イヤだ」という意味だけではなくて、
どうしようもなくまどろっこしく見える彼が、
「だからダメ」なんじゃなく、「だからこそ持ち合わせている何か」もあるんじゃないか、
と、そんなふうにも、ちょっと感じたりするからです。
(あの、真っ向からぶつかって行かない感じが、何かおちつかなくてイヤでもあるんだけど)

これは、「教室の隅で、笑えないでいる子供たち」(『ちゅらさん』より)の後日談。
駆け足でまっすぐ走ることが、教室の真ん中で笑っていることが、
本当に唯一正しいことなのか、と、そんなことを考えてみたり。

ほんとに、この感想を言葉にするのは難しいです。

「自己嫌悪」と闘う  投稿日: 2002年.6月 4日(火)
第8話、やっと観ることが出来ました。
観ながら、哀しくて切なくて、泣きました。
主人公たちの甘えを、許せない、と思う人が多いに違いない、
主人公たちの足踏みを、歯がゆい、と思う人が多いに違いない、と確信を持ちながら、
それでも、私には、彼らを見離すことが出来ませんでした。

こんなふうに受け取ってしまったことが正しいのかどうか、
私には自信がありません。
けれど、恵子(国仲涼子)の「ドラマじゃないんだから」というセリフを聞いた時、
逆に、こういう人たちが主人公のドラマがあってもいいのだ、
弱くて、甘くて、逃げてばかりいる、
観ていてすごくイライラさせられたり、ガッカリさせられたり、物足りなく感じさせられる、
そんな、「強くない人たち」のドラマがあってもいいじゃないか、と、
そんなふうに感じ、
そうして、今「自己嫌悪」のかたまりの只中にいる琴美(柴崎コウ)や恵子に対し、
(同じようなものを物心ついた時からずっと身にまとって来た、自分自身と重ね合わせ)
いつのまにか、彼女らに「痛み」と「共感」を持つようになってしまっていたのでした。

友人の自殺を目撃する、という、大きな荷物を背負わされた彼女が、
「だから『自殺』という手段を決して選ばない人間になる」と言えるのか・・・
傷ついている恋人を見たら、
自分はどれほど辛くても、必ず手を差し延べ続けなければならないのか・・・

自分がとことん嫌になって、どこかに救いを求めたくて、
ふと、学校の屋上から飛び降りた友人を思い、
「ああすれば救われるのかもしれない」という誘惑に勝つことが出来ず、カミソリを握る。
けれど、彼女は、その死を受け止める側の人間が、どれほど痛みを感じるか知ってる。
だから、ためらい傷、というところで踏み止まれたのではないか。

恋人が傷ついて、苦しんで、その想いを、全部自分にぶつけて来る。
それを、普通の人だったらきちんと受け止めて、時に叱咤(しった)し、時になぐさめ、
彼が立ち直るのを、しっかり見届けてあげられるんだろう。
でも、自分がしてやれることは、おいしくない冷やし中華を作ってやることぐらいで、
こんなに彼が苦しんでるのに、辛いのに、自分がしてやれることは何にもなくて、
なんで自分はこんなに弱いんだろう、って、哀しくて苦しくて、
「ごめんなさい、ごめんなさい」って何度も繰り返しながら、
彼から逃げてしまったのではないか。

2人に共通する「自己嫌悪」=自分を好きになれない、という気持ちは、
おそらく、一度でも、何かに真剣にまっすぐに立ち向かい、成功を味わった人間には、
持ち得ない感情であるかもしれません。
いや、小さな嫌悪感というのは、誰でも持つと思うけど、
自分のすべてを否定しなければならないほどの大きな自己嫌悪(自己否定)というのは、
そうそう味わうものじゃない、と思う。
結局、甘ったれ、弱虫、いくじなし、の逃げ場なのだ、と言えるのかもしれない。

でも、それでも、弱い人間も、なんとかして生きて行かなければならない。
メソメソしながら、ウジウジしながら、
そういう自分を、嫌いだ、嫌いだ、と思いながら、
何とかしなきゃ、と思いながら、
ぶつかって行くのが恐くて恐くて、踏み出せない自分を、また責めながら。

夢のカリフォルニア』は、そんな「いくじなし」を認めてくれてる。
だけど決して、「そのままでいい」と、許してくれているわけではない、と思う。
3人(堂本・国仲・柴崎)の旅立ちは、「逃避」であって、「前進」ではない。
旅の果てに、3人が探しているものの答えはない。
温かくて優しくて心地良い旅は、「自分らしく生きるための出発点」にはならない。
そのことを、3人は、まだ気づかない。
あるいは、気づいていながら、逃げている。

傷つくことを恐れ、自分を痛めつけることを恐れて、
そこから逃げてしまっても、何の解決にもならない、
痛くても、辛くても、苦しくても、ぶつからなければならない、
夢のカリフォルニア』は、「夢」でしかない、と、
それぞれが、自分の中にカリフォルニアを見つけなさい、と、それが言いたくて、
作者は、3人を旅立たせたような気がしてならないのです。

旅立つことがこの物語の終わりでなかったことに、救われている私です。

そして、中林くん(田辺誠一)。
だんだんピエロに見えてきた、ということは、
彼もまた、過酷な現実と向かい合わなければならない時が迫って来ている、
ということなのでしょうか?

ありがとう、ごめんなさい。 投稿日:2002年6月 8日(土)
今さらですが、少し補足説明をさせて下さい。
「強い人」という言葉に、どういう意味を持たせたかったか、ということです。

たとえば、自分と相手の間にトラブルが起きたとして、
公平に見て、その原因がお互い半分ずつだったとします。
私が思う「強い人」は、それをちゃんと「半分ずつ」と判断出来る人です。
自分もこういうところが悪いけど、あなたもそういうところが悪いよ、と言える人です。
「弱い人」とは、それを「相手が悪い」と責任転嫁してしまう(A)か、
あるいは「自分が悪い」と引っかぶってしまう人(B)、ということになります。
(もちろん、私だけの見方です)

琴美も恵子も、私には、「全部自分の責任と感じてしまう人」(B)のように思えます。
相手に責任転嫁出来ないから、全部自分が背負うことになる、
それが辛いから、と、誰かに甘えることも出来ない。
あの部屋で、恵子が、誰かが救ってくれるのを待っていたとは思えない。
いや、きっと、心の奥の奥では「助けて!」と叫んでいたとしても、
それを、例えば琴美や終にぶつけてしまうことを、罪悪のように感じてる、
そんな種類の子に、私には思えるのです。

また、「彼女たちは求めていない」と、私には思われること、
「求めていないから、もがくことも、あがくことも出来ない」のではないか、と、
その辺のことを、もっと言葉を尽くしてお返事したい、という気持ちがありました。

この辺の受け取り方は、それこそ千差万別、ひとりひとり違うのでしょう。
みなさんが「恵子は自分の弱さに甘えている」と受け取ったとしても、
それを否定するつもりはありませんし、
あるいは、それが正しい捉え方なのかもしれませんが。

夢のカリフォルニア  投稿日:2003年8月28日(木)
私の住む地域では、今『夢のカリフォルニア』を再放送しています。(本日7話)
改めて観ていると、やっぱり「うまいなぁ」と思うところが随所にある、
脚本も、キャストも。

観る人によっては、あの停滞感というか、変化のなさがつまらないかもしれないけど、
私は、好きでしたね。
今回の再放送で、それを改めて確認したような気持ちです。

田辺さんの中林という役も、何と言うか、「逃げてる感じ」が好きです。
今観ると、以前観た時思ったより、ずっと重要な役だったんだな、と感じます。
ものすごくきめの細かい演技をしてたんですよね。(と、今頃気付く。苦笑)

これから、このドラマと『眠れぬ夜を抱いて』のトークに入りますが、
このクール(2002年4月期)が、私が今まで田辺さんを観た中で、
最も密度の濃い3ヶ月だったような気がします。