『ジーン・ワルツ』(映画)感想その2【ネタバレあり】

ジーン・ワルツ(映画)感想その2 【ネタバレあり】
何となく試写会の感想がフワついたものになってしまって
居心地が悪かったので、早々に再見。

結果、映画全体の印象が随分変わりました。
以下、あいかわらず妄想たっぷりの感想になっています。


試写会の時は、
まず最初のシーン(お父さんが娘のビデオを撮ってる)から違和感があって
すんなり入り込めなかったところに、
大きな問題提起となるはずの三枝久広の逮捕が、
サラサラッと流されてしまって、
え〜っ?と思っているうちに、どんどん話は進み、
時系列シャッフルを読み切れないうちに、
未消化のまま、嵐の中の3人の出産、というところまで行ってしまった、
というのが、正直な気持ちだったのですが、
今回は、物語の流れをほぼ掴むことが出来たので、
すんなりと話に入って行けた気がします。


また、4人の妊婦さんたちについても、
今回は素直に感情移入することが出来ました。
特に、青井ユミについて、
子供を産むことを、あまりにも安易に決めていないか?
子供は産むべき、という倫理観を振りかざしたものになっていないか?
という引っ掛かりが前回はあって、
そのことが、他の妊婦さんたちの立場にもすんなり入って行けない、
私個人の足枷(あしかせ)になってしまったんですが・・


ちょっと話が逸れますが、
実は、最近『てっぱん』(NHKの朝ドラマ)を観ていて、
バリバリ仕事して来たのに、予定外の妊娠をしてしまい、
しかも彼とは別れてしまった、
という女性(京野ことみ)の話があって・・
彼女が転がり込んだ先の下宿の大家さん(寺島純子)が、
彼女の「産もうと思っていない」気持ちを察して、
「生まれてくる子が邪魔だと思うなら産むな!」というシーンがあって
何だか私はびっくりしてしまって。
NHKの朝ドラでそんなこと言ってしまっていいのか、と。


避妊出来ずにたまたま妊娠してしまった、としても、
ひとつの命には違いない。
堕胎は、その命を奪う(殺す)ことになる・・
だけど、安易に子供を産んで、育て切れない、
そういう親がたくさんいるのも確かで。
どうやって子供を育てたらいいのか分からない、
親になりきれない親がいるのも確かで。


『てっぱん』の女性は、
自分のお腹の子が生まれるのを素直に楽しみにしてくれる
下宿先や周囲の人たちの気持ちに触れて、
薄皮を剥ぐように、少しずつ少しずつ不安やエゴを脱ぎ捨てて行き、
赤ちゃんを産もうと思うようになるんですが・・


この映画のユミは、それに比べて、
「子供を産もう」と決心するまでの流れがあまりにも急で、
命にかかわる大切なことを、そんなに簡単に決めてしまっていいのかい!
と突っ込まずにはいられなかったんですね、前回は。


でも、今回、
彼女の子供が生まれるのを楽しみに待っていてくれる
院長の存在があったことが、
彼女を出産に踏み切らせたのかな、という気がして。
自分のお腹の中にいる子供が、誰かに望まれて生まれて来る・・
その「誰か」が院長ただ一人だとしても、
そのことを知っただけでも、
彼女にとっては大きな後押しになったんじゃないのかな、と。


そう思って他の3人の妊婦さんのことを考えると、
人工授精だろうが、高齢出産だろうが、代理母だろうが、
誰かに求められ、望まれ、愛されて生まれて来る子供であれば、
普通の子と何の違いもなく、等しく幸せなんだろうな、と・・
たとえそれが、5分しか生き長らえなかった命であったとしても。


清川が理恵に尋ねた3つ目の問い。
「好きな人の子か?」
これ、たとえば「誰の子だ?」という詰問も出来るし、
もっと直接的に「俺の子か?」と訊くことも出来ると思うんですが。
だけど、彼は、自分の子かどうか、というより、
まず第一に、
理恵が、ただ遺伝子を操作して、
神のように命を司(つかさど)り、生み出そうとしてるんじゃない、
そこには確かな愛情がある、と・・
この子たちは、求められ、望まれ、愛されて生まれて来るのだ、と・・
確信したかったんじゃないか、と思うのです、
子供たちのためにも、他ならぬ理恵のためにも。


理恵は、顕微授精という「手」を持っている。
その「手」は、理恵にとっては、ただひとつ残された希望の光で、
その「希望の手」を使って、
何とかして「好きな人」と繋がりたかったんだろうと思う、
たったひとりで今まで背負って来た、
子宮を失い、お腹の子を失った喪失感・欠落感から来る
深い哀しみから、密かに解き放たれるために。
 (そう思うと、なんだか私には、冒頭の理恵の顕微授精のシーンが、
 『ハッシュ!』で礼子がスポイトを差し出してるシーンに見えた)


でも理恵は、清川に迷惑をかけることだけは避けたかった。
体制の中にいる彼に体制を変えて欲しかったこともあるし、
清川自身から「俺の脚を引っ張るな」と言われていたこともあるけれど、
理恵と違って、清川は、
そういう中でうまく泳ぐ術(すべ)を身につけていて、
そこからはみ出すような行為は、決してしない人間だと思っていたから。


だけど・・


絶対に逃れられない場所で、
清川が放った質問、「好きな人の子か?」
理恵は、彼の真剣さに負けて「・・・もちろんです」と本音をもらす、
その瞬間、清川と理恵は――「共犯者」になったんだと思う・・


原作の曾根崎理恵のように、
クール・ウィッチ(冷徹な魔女)でも、天才医師でもなく、
体制に敢然と立ち向かうしたたかな強さを備えた特別な人間でもない・・
大谷監督は、あえて、この映画の理恵を、
そういう女性にしたような気がします。


彼女は、
顕微授精のスペシャリスト、という‘技能’を持っただけの、
小さな力しかない、普通の女医でしかなく、
そんな彼女が、自分自身の想いや、
産科医療のさまざまな現状と真剣に向き合ううちに、
已むに已まれず立ち上がるしかなくなってしまう・・


一方、清川は、
切羽詰って思い切った行動を勝手に取るようになる理恵を、
苦々しく、迷惑に思う部分がありながらも、見捨てることが出来ない。
一途に、懸命に、必死に生きている理恵に惹かれ、
中合わせで、彼女を支え護って行く「覚悟」をする・・


この映画を、そういうお話として捉えた時に、
全体が、すんなりと無理なく
観ている私の心に溶け込んで来たような気がしました。


そして・・


「お前は体制の外から現状を変えろ。俺は体制の中から現状を変える。
お互い足りないところを補うんだ」


これは、ふたりが本物の「共犯者=同志」となった瞬間であると同時に、
今現在の立場で清川が理恵に向かって言える、
最高のproposeではなかったか、という気がしたのですが・・
う〜ん・・さすがにそれは妄想働かせ過ぎでしょうかw。