『熊沢パンキース03』(TV)感想

熊沢パンキース03TV感想 投稿:2003年12月14日(日)showm
『熊沢パンキース03』
今年夏、ここで、あれほど言葉を出し尽くし、語り尽くしたと思ったのに、
TVの中にいる大人計画の面々や佐藤隆太くんや田辺誠一さんから、
「まだまだだろ、もっともっとだろ」とせっつかれているような気がして、
観ながら、また、心臓がバクバクしてしまいました。(笑)

 

「なぜ彼らは、死ぬかもしれない、と分かっていて
熊沢から、‘居酒屋まいはーと’から、滝から、離れられないんだろう」
という疑問の答えが、
舞台を観た時の私には、ぼんやりとしか見えていなかった。
今も、よく見えてないのかもしれないのですが。
だけど、ひょっとしたら・・・・
「彼等を彼等として認め、彼等のまま一番深く愛してくれるのも、
一番深く傷つけてしまうのも、そこに居る彼等自身だから」
なのかもしれない。

 

何百万の人たちが住んでいる都会にいれば、その数に比例して
自分を理解してくれる人が増える、というものじゃない。

小さな地方都市の、自分達のテリトリーの中で、
野球のように、自分たちだけのルールを作り、逃れられないシガラミを作り
誰一人欠けてもゲームが出来ない状況を作り、
独特の息苦しさと心地良さとを共有することで
「自分の居場所」を確保している彼等は、
あそこでしか「自分らしく生きる」ことが出来ないことを
悟っているのかもしれない。

そして、自分らしく生きることが出来ないのなら、
生きているとは言えないのだと、
死んでいるのと一緒なのだと、彼等は(無意識のうちに)信じているから、
他のどこにも行けないのかもしれない・・・・

・・・・TVを観ながら、そんなことを考えました。

 

木更津キャッツアイ」の最終回、死に際のぶっさんに、
みんなが心残りに思ってたことを口にするシーンがあるのですが、
「ああ、これって、最後まで滝にからんでた荻野と同じだよね」
と思いました。
死ぬ間際、心残りのあるのは、死ぬ本人ばかりじゃなく、
その周りの人間もなのだと、そんなことも思いました。

 

TV中継と生の舞台、ということについて。

正直、あの時舞台から発散していた、独特の熱と毒気が、
TVを通して観ると、かなり薄まっているように思いました。

ただ、私としては、生で観ることの最大のメリットであると思っていた、
田辺さんをはじめ、阿部サダヲさんや、宮藤官九郎さんや、
松尾スズキさんや、
そういう「有名人がそこにいる」「有名人を生で観られる」ことの嬉しさ、
というのは、思ったよりずっと弱かった。

それよりも、
「居酒屋まいはーとのお客であるかのような」感覚の方が勝っていて、
そこにいる滝や金子や五十嵐と同じ空気を吸っていることに、
芝居を観ているあいだ中、ずっと酔わされていた・・ような気がします。

 

残念ながら、TVでは、その感覚が薄かった。
それはきっと、出演者だけでない、
観客も、劇場も、諸共に生み出すものが、
生の舞台には、あるからなのかもしれません。

もちろん、TV中継にはTV中継の良さがあります。
この作品に関して言えば、距離を置き、あの毒気が弱められることで、
ようやく透けて見えて来るものもあるのではないか、という気もしました。