コクーン歌舞伎『天日坊』感想

コクーン歌舞伎『天日坊』感想WOWOW
宮藤官九郎:脚本、串田和美:演出。

 

軽々に「面白かった」と感想を書くのがためらわれるぐらい、
勘九郎さんの演技には、いろいろな意味で衝撃を受けた。
ひょっとしたら私は、途中から、この作品を、
『天日坊』というお芝居としてではなく、
「六代目・中村勘九郎の成長譚」として観ていたのかもしれない。
なので、まともな感想になっていない上に、
いつも以上に妄想が入り込んでいます、と、最初にお断りしておきますw。

   * *

2月に六代目を継いだばかりの中村勘九郎が、
父・勘三郎も 叔父・橋之助もいない中で、
七之助獅童、萬次郎、亀蔵、巳之助、新悟、といった
若手ベテラン取り混ぜた歌舞伎役者と、
白井晃、真那胡敬二、近藤公園といった現代劇の役者を従え、
6月に堂々主役として立った舞台。

 

幼い頃から弟と一緒にTVに出ていた あの「勘九郎の長男」が、
二代目中村勘太郎から、六代目中村勘九郎と名を改めた。
彼は、素の自分の上に二代目勘太郎を背負い、
さらに、また、六代目勘九郎の名を背負うことになった。
歌舞伎役者の肩には、そうやって名を継ぐごとに、
自分と同じ名跡を持った先代への責任が積み重ねられて行く。

 

物心つかないうちから ただひとつの道を定められ、
綿々と受け継がれて来た名跡を与えられ、
そうして、その名に恥じぬ役者として舞台に立て、と、
それが当たり前である、と、何の疑いも持ってはならぬ、と、
歌舞伎役者の多くは、そうやって育てられて行く。

 

あちこちから、この芝居の主人公・法策のように、
「俺は誰だぁっ!」という心の叫びが、聞こえて来そうな気がする。
何度も名を替える、俺はいったい何者なんだ!と。

 

しかし・・
法策を演じた勘九郎自身は、きっと、その答えを知っている。
名前を何度替えようとも、どんな名跡になろうとも、
「自分は自分」でしかない、と。
彼はきっとこう言うだろう、「俺は俺だ!」と。

 

歌舞伎に対する畏敬に似た愛情の上に、
そう言い切るだけの強さ・・
死ぬまで「自分」という歌舞伎役者であり続ける覚悟・・
この青年は、きっと、すでにそれを持っている。
そして、それをどう表に出すべきか、も、(たぶん)知っている。

 

先代・勘九郎は、言わずと知れた彼の父親、
歌舞伎界で、常に刺激的な風を巻き起こしている名優。
その名を継ぐことが、どれほどの重責か。

 

しかし、一見朴訥そうなこの青年は、
(彼の内面では、さまざまな葛藤があるにしても)
すでに、そんなことに囚(とら)われてはいないように見える。

 

彼は、父親ゆずりの柔軟な頭と、自身が磨いて来た豊かな感性と技で、
真摯に、貪欲に、したたかに、
自分の血や肉になるものを片っ端から呑み込んで行こうとしている、
クドカンだろうが、串田和美だろうが、コクーンだろうが、
歌舞伎と現代劇の垣根だろうが、
(ひょっとしたら)歌舞伎そのものだろうが。

 

法策は、さんざん暴れまわり、のたうちまわり、
息の続く限り あがいてあがいて、それでも命を失わない。
その意味は何だろう・・?


私は、歌舞伎のことは何も知らない。
だけど、彼のこれから、は、見続けて行きたい気がする。

 

今後、彼が、多くの若い仲間と共に、
歌舞伎の何をどう変えて行こうとするのか、
歌舞伎の世界観をどんなふうに広げてくれるのか、
遠くからそれを眺めるのを、楽しみにしたいと思う。