『ハッシュ!』感想

以下は、BBSに載せた『ハッシュ!』の感想です。

やっと『HUSH!』です。  投稿日:2002年.7月 8日(月)
いったいどれだけ待たされたんだろう・・・・
待ちくたびれて、心の中で、ものすごく発酵してたわりには、
サラサラと流れるように、スクリーンの彼らを観ていたような気がする。

これは、特別な物語じゃない。街のどこかで、私も、
朝子(片岡礼子)や直也(高橋和也)や勝裕(田辺誠一)とすれ違っているかもしれない、と、
そんなことを思った。

そして、彼らを「普通」として観せることが、
橋口亮輔監督の「男や女やゲイという区分を超えた、全部ひっくるめた愛」の表現なのかな、
とも思った。

直也が橋口監督であるように、
朝子も橋口監督なのだろう、とは、うすうす察しがついていた。
しかし、あの容子(兄嫁)やエミまでもが、橋口監督である、と気づかされた時、
私は、ますます橋口亮輔が好きになっていた。

プログラムと、橋口監督のうらがえし、というお話は、次回。


WAO~!  投稿日:2002年7月 9日(火)
↑の書き込みについてちょっと付け加えます。

 >私は、ますます橋口亮輔が好きになっていた。
という部分、「好き」というのとは違うな、と。

もうほんと、こういう人の傍には近寄りたくない、というのが本音です。
この‘心’には関わりたくない、と言ってもいい。

でも、それでも、私はこの人を「嫌い」だとは思えない。
相手を一刀両断にする、その鋭い切っ先が、
自分自身をもスッパリと切っている、と、そんな気がしたから。

彼はすでに彼岸にいて、「お前も来いよ」と、俳優たちを挑発してる。
俳優たちは、魅入られたように次々と川に飛び込み、
彼のいる場所に向かって、がむしゃらに泳ぎ出す。

本当に彼のところまで辿りつけるのか、泳いでる俳優も不安だろうけど、
待っている彼のほうが、もっと不安だったろう。
ひょっとしたら、溺れさせてしまうかもしれないんだから。

それでも、彼が「飛び込め! 飛び込んでここへ来い!」と言いたかった気持ちが、
おぼろげにだけど、解かる気がした。

だから・・・・
「好き」というのとは、やっぱりちょっと違う。
それは、おこがましいかもしれないけど、「一歩前進した理解」というほうが
近いのかもしれない・・です。


>レス  投稿日:2002年7月13日(土)
芸術家・創作者は、皆「自分」を作品の上に晒しているのだと思います、強弱の差はあれ。
でも、それは、おおむね、作品自体に表われてることが多いわけなんですよね。

ところが、橋口監督は、インタビューなどで話す時に、
ものすごく「むきだしになってる裸の心」を晒してしまってるくせに、
「映画に、これだけの気持ちを吐き出してるんだよ」と、あからさまに告白してるくせに、
『HUSH!』を、観客の胸が痛むような、苦しくなるような映画にしなかった。
ちゃんと、監督の伝えたかったことは伝わっていながら、
エンタティンメントとして仕上がっていた。
「分からないヤツは、分からなくてもいい」という、閉鎖的な創作じゃなくて、
「俺って、こんなヤツなんだよ。少しでも多くの人に分かって貰いたいんだよ」という、
開放的で、ある意味切実な創り方。

これは、まるっきり私の想像ですが、
監督がインタビューで吐露したような部分というのは、
きっと、映画を創って行く段階で、俳優にぶつけられたものって、
ものすごく多かったんじゃないかと思うんです。

受け取る方は、本当に、さぞや大変だったろう、と思うのですが、
でもそれは、一方的にぶつけられたままだったのじゃなくて、
ちゃんと、濾過(ろか)されるに十分の時間と、話し合いが持たれていた、と、
だから、出演者は、皆が皆、
「まるで‘自分’を生きるように」自然にあの映画の中で息づいていたのだ、と、
そんなふうに感じました。

勝裕が、最初に「子供か。もしかしたらそれもありかもしれない」と思った理由は、
もちろん、朝子に「父親になれる眼をしてる」と言われたからでしょう。
勝裕みたいなタイプって、人の評価に流されやすいって感じがするから、
「へぇ~そうなのかぁ、俺って、父親になれる眼をしてるのかぁ」なんて、
すぐその気になって、あげく、
「子供かぁ、もしかしたら、それもありかも・・」とか、考えちゃうのでは?(笑)

勝裕って、人の気持ち、素直に受け入れてしまう人なんじゃないでしょうか。
みんなの気持ち、全部受け取ってしまって、けっきょく自分が苦しい目に遭(あ)って、
それでもそういう自分を変えられないでいる、そういう人に思えるんですが。


Re:ありがとう  投稿日:2002年7月15日(月)
「ハッシュ雑感(監督編)」で、私、
この映画に出て来る女性は「女性性を持った男性」だ、という話をしましたが、
なぜそう思ったのかというと、
この映画の女性達は、「女性」であるための、決定的な何かが足りない、
という気がしたからです。
それを、監督は、‘あえて書かなかった’のか、
あるいは、‘書けなかった’のか、ということですが、
私は、何となく、その部分に関しては、監督、白旗振ってるような気がするんですね。
女性にとって「痛い」表現も随所にあるのですが、
「ごめん、俺にはこういうふうにしか書けないわ」という、
ひたすら「ごめんなすって」状態、と言うか。
女性からしたら、「こらっ!逃げるなっ!!」と言いたいところですが、
逃げなかったら、女性のそういう部分と正面からぶつかってたら、
こんなに「個」の個性が立った作品にはならなかった、という気もして。
こんなに「男」と「女」の境目を感じさせない作品にはならなかった、という気もして。


改めて。『ハッシュ!』(DVD) 投稿日:2003年4月 4日(金)
昨夜、やっと『ハッシュ!』(DVD)を見ました。
この作品については、あまりにもいろいろと語られ過ぎて、
作品自体以外から受け取ったものも多過ぎて、
まだ1回しか観ていないにもかかわらず、
正直、自分の内で、手垢がついてしまってるような感覚があったのですが、
改めて観て、
改めて感動して、
改めて、なぜ「この田辺誠一に主演男優賞をあげたい」 と思った人がいたのか、
ものすごく、よく解かったような気がしました。

賛否両論あるかとは思いますが、
その辺についても、私なりの見解をトークでお話出来れば、と思います。


あっぴこにっき(9月29日)を読んで  投稿日: 2003年9月30日(火)
(私は、残念ながら「日経ウーマン」を読んでいないので、
 『ハッシュ!』に対するおすぎさんのコメント全文を知っているわけではありません。
 片手落ちになってしまうかもしれませんが、ご容赦。)

おすぎさんの文章、
  「私は自分が“ゲイ”であるというのは、“特別”なのだ、と思っています。
  “特別”なコトを貫いていくから、それは“特別な人生”があるはず…
   と頑固に思っていて、それが私の美学です。」
これには、もう本当に「まいりました!」と、頭をさげるしかありません。
自分の“特別な生き方”を、真正面から受け止めて生きて行く、
そのことの「重さ」を、改めて考えさせられました。

だけど--------
ここからは、まったく、私個人の考えですが。

ハッシュ!』が、ゲイの映画である、という捉え方を、私はしてないんですね。
あれは、「朝子の物語」なんじゃないか、と。
橋口さんも、最初は、もっと、
勝裕と直也がゲイであることの意味を持たせようと思っていたかもしれない。
しかし、最終的に、直也よりも勝裕をメインにし、
ラスト、初案だった「直也と勝裕の別れ」でなく、3人で暮らす、という選択をした時点で、
ふたりがゲイである意味も、ずいぶん薄れていった、という気がします。

おそらく、おすぎさんは、勝裕と直也の、朝子への歩み寄り、に、
「ゲイとしての矜持(きょうじ)」が感じられなかったことを、
残念に思っているのかもしれないけれど、
私は、勝裕も直也も、おすぎさんのような気持ちを持っていないわけではないし、
自分がゲイであることで悩んでいるわけでもない、という気がするのです。

 >人生に臆病になっている人達
というのは、ゲイだから臆病になった、あるいは、臆病だからゲイになった、
ということではない。

ただ、今回の映画で伝えたかったことは、たまたま「そこではなかった」、
もっと別の部分、「人としての根源」の部分を話したかった、描きたかった、
という気がしてなりません。


補足  投稿日:2003年9月30日(火)
朝子と出逢い、新しい一歩を踏み出すこと、
そのことで直也と衝突し、その後、さらに深い絆で結ばれること、が、
おそらく、勝裕にとって、
ゲイである自分を解放するためのステップ、
内に秘めたゲイとしての矜持を、外に放つためのステップ、
になるのではないか、とも考えます。

・・・うーーん、それにしても、
私、えらく橋口さんを擁護してますよね。
けっして、素直に好き、というわけじゃないんですが。(苦笑)


言いたいことをまとめられない、です~ 投稿日:10月 2日(木i
私としては、
「内容」としても「表現方法」としても、朝子という女性を受け入れることが出来た、
ということになるんだと思います。

私だって、朝子は好きじゃないのよ、出来れば、近寄りたくないタイプだし。
だけど、それでも、彼女を認められる気がするのは、
家具の間にはさまって、うつろな眼をしてる、あのワンカットがあればこそ、
のような気がする。

話がそれるかもしれませんが、
朝子と勝裕にとって、映画の中で流れる時間は、
「自分を好きになるまでの猶予期間」だったような気がします。
自分のことを好きじゃない、って、なかなかつらいものがあると思うんですが、
何とかそこから抜け出そうとする時の、周りとの衝突というのが、
これまた半端じゃないんじゃないか、と。
だから、もともと「自分が好き」だった直也の存在って、
ふたりにとって、すごく大きかったんじゃないのかな。
・・・なんてことも考えたり。


ありがとうございます。 投稿日:2003年10月 6日(月)
ハッシュ!』に対するさまざまなご意見ご感想、
本当に内容盛りだくさんで幅が広く、
読んでいて、とても面白く、また、いろいろ考えさせられることも多いです。
ありがとうございます。
    **
「ゲイのカップルは、長続きしない」と、橋口さんは直也に語らせていますが、
ゲイのふたりの生活が長いスパンで考えにくいのは、
お互いがお互いを見つめるだけでなく、一緒に同じ方向を見つめて生きて行く、
「そのために必要な大切な何か」を、見つけにくいからではないか、とも思います。

いや、そんなものは最初から ないのかもしれないし、
ゲイである自分をしっかりと受け止めて生きている人たちには、
そもそも、そんなものを必要ともしないのかもしれない。

けれど・・・・

私は、最初から、あの映画の中に出て来る「子供」という言葉に、
実際に産まれて来る「赤ちゃん」を重ねて考えてはいなかったかもしれない。
あの映画で語られる「子供」は、
「同じ方向」を見つめるために必要な「何か」の、言わば「象徴」なのではないか、
「永遠に続いて行く道」の向こうにある大切な「何か」の「象徴」なのではないか、
やわらかくて、温かくて、心なごませてくれ、
困難に立ち向かう勇気を与えてくれる、そういう「何か」の・・・。

そんなことを漠然と考えたりしています。
それは、もしかしたら、
「子供は‘つかみ’なんじゃないか」というのと、近い感じ方なのかもしれませんが。