『寿歌(ほぎうた)』感想

『寿歌(ほぎうた)』感想WOWOW
堤真一(ゲサク)×戸田恵梨香(キョウコ)×橋本じゅん(ヤスオ)
の3人芝居。北村想作、千葉哲也演出。
非常に難解な1時間20分。
一度観てまったく歯が立たず、何人かの劇評を読んで、
ヤスオがヤソ(=イエス)であるということを知った上で、再挑戦。


しかし、やはり何も分からない。
分からないなりに観続けていると、やがてぼんやり気になることが・・。
ヤスオという名にヤソ(=イエス)という意味があるのならば、
ゲサクやキョウコという名前にも、何か意味があるのではないか、と。
そしてふと思う、
もしかして、ゲサクは戯作者のことではないのか・・
キョウコは、今を生きている人々=大衆ではないのか・・
そしてこの舞台は、芝居を紡ぐ戯作者の心の奥底にある闇を
具現化したものではないのか・・


   *


時代はいつなのか、場所はどこなのか、
どこから来たのか、どこへ向かっているのか、
それさえもはっきりとは分からないまま、
偶然に出逢った2人と1人は、少しのあいだ共に旅をする。


だぁれもいない、
爆弾が花火のように しょっちゅう閃光を放つ中で、
3人は、しばし遠慮がちに踊り、笑い、言葉を紡ぎ合う、
3人の時間をいとおしむように・・
本当にほかの2人が自分の傍にいるのかどうか確かめるように・・


瓦礫(がれき)だらけ、放射能まみれのこの世界に、
生きている者は、いったい あとどれぐらいいるのだろう。
おそらく「死」は、確実に彼らの許(もと)へもやって来るのだろう、
どんなに見て見ぬふりをしても、どんなに恐れても・・
だとしたら・・


出逢った時と同様に、別れは唐突にやって来る。
ヤスオはエルサレムに向かう、と言い、
ゲサクとキョウコはモヘンジョダロへ向かうことにする。
それは何か・・たとえば終末・・この世の終わり・・への暗示だろうか。
ゲサクとキョウコが向かう先は、「絶望」でしかないのだろうか。


いいや、断じてそうではない。
キョウコを荷車に乗せたゲサクは、
何かを決心したように、重々しく一歩を踏み出す。
その時、彼の眼は、
まるで「人喰いトラに身を投げ出す覚悟を決めた男」のように、
(つまりは「命がけ」で生きることを決心したのだ)
確かでまっすぐな強い光を放つのだ。


エルサレムに向かったヤスオは、どうなったのだろう・・


過酷な運命の前に身をさらして立ち向かうこと、と、
運命を受け入れてすべてを赦すこと・・
もしかしたら、行く道筋は違っても、
ゲサクやキョウコが向かう場所は、ヤスオと同じなのかもしれない。


放射能で薄汚れた灰は、やがて本物の雪となり、
ゲサクの、キョウコの、額に、肩に、手に、白く降り積もる。
すべてを覆い隠すようにしんしんと降る雪は、
神より もたらされた審判なのか、
それとも、おろかな人間が、荒廃しきった世界の中で、
最後まで命がけで生きて行こうとする、「決意」の結晶なのだろうか・・・



―――以上、分からないながら懸命に考えた、私なりの解釈。
(意味不明の中途半端な感想でごめんなさい)
難しかったけれど、妙に惹かれて、続けて再見してしまいました。
私にとっては、『フリック』と似たような、
理解困難なりの面白さがあったように思います。



出演者。


じゅんさんは、普段の縦横無尽な自由さを封印し、
(とん)がったところを あちこち削り取ったような、
少なくとも、私が今まで観たこともないじゅんさんになっていて、
にもかかわらず、さほど違和感はなく、
自分を無理に押さえ込んでいるという感じもしなくて、
「こういう橋本じゅんも‘あり’なんだなぁ」と、
ちょっと不思議な気分になりました。


戸田さんは、特に正面を向いて微笑んだ時など、
童女のような可愛らしさがあって、とても魅力的。
ただ、このキョウコという役は、童女としてのけなげさの他に、
おばちゃんのごとき ふてぶてしさ・・というか、たくましさ・・というか、
人間としてのしなやかな強靭さ、みたいなものを
身体の片隅に持っていないといけないんじゃないか、とも思うので、
そこまで役を深めるには、戸田さんの若さとキャリアでは、
ちょっと荷が重かったかな、という気がしました。


堤真一さんについては、すごいなぁ!と改めて。
難解な内容なりに、役を咀嚼(そしゃく)する力に長けていて、
‘軽さ’と‘重さ’のバランスが素晴らしく、
関西人特有のノリの良さみたいなものもありながら、
一瞬で、しっかりと物語の芯を浮かび上がらせることも出来る・・
特に、ラストの表情は絶品で、一瞬息を呑んだほど。
あの表情に会うためなら、
難解な芝居だろうが何だろうが、また観たい、と思うほど、
しびれました。