『信長』感想

『信長』感想       新橋演舞場 
1月25日。満員の新橋演舞場で、市川海老蔵主演の『信長』を観た。
襲名披露興行後の初めての舞台、ということもあるのだろうか、
制作側の熱の入れ方も、特別なものがあるような気がした。

 

そういう周りの思惑や期待を一身に背負ったはずの海老蔵だが、
その重圧をまったくこちらに感じさせない奔放さで、
うつけと言われた信長、いち早く「世界」に目を向けていた信長、を、
気負うところなく、非常に伸び伸びと闊達に演じていた。

舞台の上の彼は、とても魅力的だった。
それは‘信長’という人間像がもともと持つ魅力、でもあったのだろうが、
それを独自の想像性で豊かに膨らませた脚本と、
その上に、海老蔵本人が‘演じること’で重ねて行ったもの、が、
揺るぎなくまっすぐなものであったから、
これほど魅力的な像を結んだのだ、とも思う。
私は、脚本にしろ、役者にしろ、
信長のカリスマ性がこれほど明確に形を成した芝居に、
かつて出会った覚えがない。

 

これは、紛れもなく‘海老蔵のための舞台’である。
非常に誤解を招く言い方になってしまうが、
私としては、大道具・小道具・衣装・照明・音楽・・・
そして共演者たちさえも、
海老蔵を引き立てる「手札」であればいい、とさえ思う。

‘一緒に芝居を作って行く’のではない、これは、
常に前を走る海老蔵を、
甲本雅裕が、田辺誠一が、純名りさが、小田茜が、
ひたすら追いかけて追いかけて追いかけて行く舞台なのではないだろうか
一心に海老蔵を愛しつつ。

そうすることで、彼らは、常に前を走る信長を、
秀吉として、光秀として、お濃として、お市として、
ひたすら追いかけて追いかけて追いかけて行くことになるのだ、
あの乱世を、一心に信長を愛しつつ。


   *

 

と、ここまで海老蔵を絶賛しておいて何だが、
実は、私がこの舞台を観に行ったのは、田辺誠一めあて、である。(笑)
なので、彼が演じた明智光秀について、書いてみたい。

 

この芝居の光秀の行動で、一番理解しがたいのは、
本能寺の変」を起こすまでの彼の心の動き、である。
今回観た限りでは、私には、光秀が、信長に怨恨を持ったり、
信長に代わって天下を取ろうという野望を持ったり、という、
俗に「明智光秀」の名前でイメージされている屈折は、
まったく感じられなかった。

それは、演じる田辺が、それを表現しきれていなかったのではなくて、
もともとその部分が、脚本には描かれていなかったから、
のような気がする。
脚本は、光秀を、恨みや憎しみや野望のために信長を殺そうとする人間
として描いてはいないのだ。

ならば、なぜ「本能寺の変」は起きたのか。
この芝居の中で、光秀が、信長を殺そう、と思ったその瞬間は、
いったいいつだったのか。

私は、光秀は最後まで信長を殺そうと思っていたわけではなかった
ような気がする。

 

世界へ!世界へ!と突き動かされていた信長の心を、
誰も理解することが出来なかった。
信長が夢見たものを、その手に掴もうとしたものを、
誰も理解することが出来なかった。

理解することが出来なかったゆえに、
信長が、まるで本当の「神」になってしまうのではないか、
そうなることを、彼自身が望んでいるのではないか、と、
おろかな彼らの眼には映ってしまったのかもしれない。

お濃が「あの人を救って!」と光秀にすがったのは、
殺戮を繰り返す信長の、
その視線の先にあるものを読めない不安と闘いながら、
けれども彼を愛する者として、
なんとかして彼を、神の領域から引き戻したい!
と願う気持ちからだったに違いない。

一方の光秀もまた、どんなに罵倒され辱めを受けても、
信長を愛する気持ちに変わりなく。

お濃と光秀が抱き合いながら見たものは、
ふたりが等しく愛した人=信長が、
今まさに自分達を置き去りにして飛び立とうとする姿、
だったのではないか、と。

 

光秀は反芻する。
「信長を救う」には、どうすればよいのか。
神の領域に飛び立とうとする信長を、
自分達が住まうこの世に留めるためには・・・・

そうして「本能寺の変」は起きる。
恨みではない、憎しみでもない、
信長の大意を最後まで読めなかったちっぽけな人間の、
けれどもひたむきな愛から生まれた、「信長を救う行為」として。

 

お濃は信長と共に死に、光秀は三日しか天下を取れず、討ち死にする。
しかし、ひょっとしたら、彼らにとっては、信長の死後の自分、など、
何の意味もないものだったのかもしれない、
「その後」「その先」をしっかりと計算高く見据えていた、秀吉と違って。


   *

 

私には、明智光秀という人物が、
この芝居の脚本の中に、ほとんど過不足なく描かれていたように思える。
けれども、それを演じる田辺が、
光秀像をしっかり掴まえていたかというと、
いささか疑問を持たざるをえなかった。
心情的に、という部分もだが、それよりも前に、表現手段として、
「違うんじゃないか」と思うことが多かった。

 

まず、声の出し方だが(この声に一番近いのは風左衛門だろうか)
わざと声をつぶしたような話し方をするので、
どうしても、自然ではない「作り物」めいた感じがしてしまう。
弱々しくはないが、言葉がストレートにこちらの心に響かない。
(同じような発声をしていた風左衛門の場合は、
逆に‘声を作る’ことであの独特の雰囲気が出ていたのだと思うが)

特に、初めて信長とまみえるシーン、
信長が去った後「乱世を終わらせる星が見える」と言うのだが、
あそこであんなふうに‘作って’しまわれると、
光秀の人物像をあれこれ想像して楽しもうとするこちらの気持ちを
削がれる気がする。
信長に出会い、即 心酔する場面である。
ろうろうと語り上げるのではなく、
もっと自分に言い聞かすような感じでもよかったように思う。

 

第二部に入ると、その声も幾分おちつくが、
それでも、やはり、他の人たちに比べると、すんなり耳に馴染まない。
中で、終盤の秀吉とのシーンは、普通の話し方に近く、
私には、かえってストレートに伝わるものがあった。

比叡山焼き討ちのシーンは、光秀の見せ場のひとつ。
信長に真に忠誠を誓う、というような意味合いを持つこのシーンは、
もっともっとセリフのテンションを抑えて、
ゆっくりと噛み締めるような話し方であっても良かったのではないか。

 

こうしてひとつひとつ見て来ると、
全体として、声の出し方と、セリフの抑揚に難があるような気がした。
これは歌舞伎ではない、普通の芝居なのだ、
光秀は天才でも神でもない、普通の男なのだ、
もっと自然に、作らずに、抑えた声を出したほうが、
もっともっと「光秀」を観客に伝えられる、と思うのだが、どうだろう。

 

心情的な部分では、
信長にとことん惚れ込むことを、どこかでためらっているように思える。
のちのち信長を殺す、その史実に囚われてしまうと、
この芝居の中で、光秀が最後まで抱いていただろう信長への忠誠と愛とを・・
天才・信長に対して、
いつまでも普通の人間として自分の傍にいて欲しい、
と願ったおろかしさを・・
はっきりとした形で観客に伝えることは出来ない。

秀吉のように、どこかで打算が働いているわけではない、
ひたすらに、ひたむきに、信長に心酔し、愛し、それゆえに悩み、殺す、
そういう「理詰めで人を愛してしまった人間」の悲哀が、
もっともっとストレートに表面に出て来てもいい。
純な気持ちを、信長にも、観客にも、もっと強くぶつけて欲しい、と思う、
作らない素直な声と、一途な表情で。