『フリック』感想:3

 ≪刑事は、事件の‘帰結’を求めて「犯人」を捜し続ける≫〜DVD3回目の鑑賞〜

長い映画なのに〜、と自分にツッコミを入れつつ、3度目の鑑賞。(笑)
本当に長い。長いけれど面白い。
観るたび少しずつ何かがクリアになって行く、ような気もする。

   *

事件が起こると、刑事たちは「犯人」を捜(さが)し始めるわけだが、
その道のりは、時に長く険しい。
時折、刑事たちは、その長く険しい道のりに屈服する。
あっさりと迷宮入りとなったり、
真犯人と呼べる人間が捕まらなかったりして、
真実が闇の中に葬られてしまうことも多い。
しかし、それでも、とりあえず(どんな形であれ)
「事件」は解決したことになる。
そして刑事たちは、次の「事件」に向かうのだ、あわただしく。

 

けれども、そんなに簡単に心の整理が出来ない刑事もいる。
そうあっさりとは引き下がらない、諦めることを良しとしない男―――
村田(香川照之)が、そのカンと嗅覚と推理力を使って、
犬のように執拗に犯人を追い続けようとするタイプの刑事であることは、
苫小牧での行動を見れば、容易に想像出来る。

そんな彼が、「自分の妻がやくざに殺される」という事件に見舞われ、
しかも、そのやくざを射殺してしまうのだ。

その直後から、村田は浮遊し始める、刑事としての‘帰結’を求めて。

 

彼にとって、やくざが死んだことは、刑事としての決着には至らない。
なぜなら、彼にとっての「犯人」は、実際に妻を殺した男ではなく、
やくざに妻殺しを依頼した男、に他ならないからだ。

彼は「犯人は誰か」を推理(妄想)する。
しかし、そこには、刑事として「事件の帰結」を目指す気持ちと共に、
妻を殺された男の、やりきれない・行き場のない「哀しみの終息場所」
を探す姿が、ニ重写しになっているような気もする。
「犯人」を見つけ出す(作り出す)ことで、彼は、
妻に対するさまざまな「後悔」から逃れたかったのかもしれない。
その後悔を犯人に負い被せることで、
自分が救われたかったのかもしれない。

そうして彼が推理(妄想)した「犯人」は・・・
もっとも身近にいて、彼の涙を拭ってくれた男なのである。

 

彼は浮遊する。
犯人を「作り上げる」ことで自分は救われる、しかし、同時に、
それは、今の自分にとって、もっとも大事な人間を失うことにもなるのだ。

村田は「妄想」の中で、滑川(田辺誠一)を殺す。
それは、自分の刑事としての帰結である、と同時に、
大切なものを失う瞬間でもある。
妄想の中で滑川を殺す自分と・・・・
夢から醒めて、滑川の無事を知ってほっとする自分と・・・・
その「刑事として」と、「人間として」のせめぎあいに、
彼はどんどん追い詰められて行く。

 

苫小牧で、彼の前に現われる人間たちは、
皆「被害者」か「加害者」になる。
殺す人間と殺される人間。そのふたつの形でしか、人々は存在しない。
そんなふうに「刑事」としての意識が拡大されて、
「刑事としての自分」に、自分の身体も心も頭も乗っ取られることに、
村田は怯え、哀しむ。

妄想の中で滑川を殺せば、また別の人間を、
その男を殺せば、また別な人間を、
彼はひたすら殺し続けるのだ、自分自身さえも・・・
「事件の帰結」という、刑事としてのサガを抑えられずに。

そうやってずっと生きて来た自分と、
そうやって生き続けることが辛い今の自分と。

そうして彼は、刑事を捨てることを決意し、
それを伸子(大塚寧々)に伝える。
妻殺しと美知子殺し、ふたつの事件の真相に最も近づくのは、
実はこの時である。
しかし、彼はすでにコーヒーを飲んでしまっている。
一瞬、また浮遊しかける彼の意識は、
幸運にも(不幸にも)かろうじて繋ぎ止められ、
そうして、ほどなく、
彼の「哀しみ」は‘終息’を迎え、刑事としての‘帰結’は完了するのだ、
新しい「犯人」を作り出すこと、すべての罪をその男になすりつけること、つまり、
「佐伯」(田中隆三)を妄想の中で撃ち殺すことで―――――――