ライフ・イズ・ジャーニ―(talk)

2003・6公開 (2003・12・3DVD発売) 
★このトークは、あくまで、翔と夢の主観・私見によるものです。 

  夢:何だか、今となっては とても懐かしい。(笑)
  翔:・・・そうだね。
  夢:DVDを観直して、どうだった? 
  翔:正直、『眠らない羊』 『DOG-FOOD』 『SWIM 2』 と、「田辺ワールド」にどっぷり嵌(は)まってしまったような感覚がある。 「なぜ?」 「どうして?」 という疑問符をいっぱい抱えながら、「人間・田辺誠一」に対する‘謎解き’に夢中になっていた、というか、否応なくそういう感覚に引きずり込まれていた、と言ったらいいか。(笑)
  夢:・・・・うん。
  翔:この作品では、なるべく「そういう観方」をしないようにしよう、ちょっと客観的に観てみよう、と・・・
  夢:なるほど。
  翔:でも、何度観ても、なぜかこの『ライフ・イズ・ジャーニー』では、田辺誠一という人間の内部(深部)に触れた、という気持ちにはならなかったけど。
  夢:客観的に観よう、なんてガードを張らなくても?
  翔:そう。
  夢:ん~それはどうしてだろう。
  翔:観ているこちら側の姿勢の問題もあるだろうし、田辺さん自身がこの映画で表現したかったもの、というのが、ある意味『DOG・・』とかとは違ってるのかなぁ、とも思うし。
  夢:『DOG・・』とは違う?
  翔:何と言ったらいいだろう、ちょっと大げさな言いまわしかもしれないけど、『DOG・・』は田辺さんの「内世界」「内宇宙」を表現しようとしていたんじゃないか、と・・・ 
  夢:・・・・・・・・
  翔:で、『DOG・・』を観ている‘こちら側の姿勢’というのは、「田辺さん自身が‘映画を作ること’で、何かを乗り越えようとしてるんじゃないか、何かに決着をつけようとしてるんじゃないか」 と、勝手にあれこれ想像し、空想し、妄想してた、ということなんだけど。
  夢:・・・・・・・・
  翔:私としては、その辺の「田辺さんの気持ち」(勝手に私が空想した)を、‘映画を観る’ことで「追体験」していたような気もするので。
  夢:『DOG・・』の時に?
  翔:そう。 だから、普通 映画を観る場合の 客観的観方・冷静な観方 が、ほとんど出来なかった、というか、映画の中の動作や言葉の‘意味’を一生懸命読もうとして、「これはいったいどういうことなんだろう? この時の田辺さんは、どういう気持ちだったんだろう?」 と考えるのが精一杯だった、というか。
  夢:・・・・・・・・
  翔:でも逆に、そういう‘謎解き’に没頭することで、あの頃、『眠らない羊』で見失いそうになっていた「田辺誠一」のしっぽを、また掴まえることが出来たかな、とも思うので。
  夢:「眠らない羊症候群」からの帰還・・ね。(笑)
  翔:まったく私の超個人的な感覚、ではあるんだけど。 ・・・でも、まぁ、そういう特殊な映画の観方、というのも、私としては許してもらいたい気がするけどね。 まっとうな映画ファンの観方じゃないのかもしれないけど。(笑)
  夢:「田辺誠一の‘謎解き’」って、翔にとっては、かなり奥深かったわけでしょ?
  翔:そうだね。 そういう点では、『DOG・・』は非常に面白かった、というか、興味深かった。 
  夢:で、「謎」は解けたわけ?
  翔:いやいや、『DOG・・』は単に出発点に過ぎないから。 それ以降、いろいろなものをいっぱい受け取って、徐々に徐々に「真相」に近づいて行ってるような気はするけど・・・ でも、近づいたかと思うと、するりと逃げられてしまったり・・・(笑) 
  田辺さんは、そんなふうに、まだまだ、ミステリアスな部分をいっぱい持ってる人で、だからこそ追いかけるのが楽しいんだ、とも思うけれどね。
  夢:うーん、なるほどね。 
‘謎解き’という点では、最近では『フリック』も、翔は、かなり刺激されてたようだけど?
  翔:『フリック』の場合、もともとミステリー要素も強かったんだけど。 でも、あの作品も、「監督(脚本)の意図を読む」という部分では、『DOG・・』に近い楽しさ、というか、苦しみ、というか(笑)、そういうものは、確かにあった。 小林政広監督もまた、私にとっては‘恐いほど魅力的’だったし。 『ハッシュ!』の橋口監督も同じだけど。
  夢:そうかぁ、うんうん。 ・・・で、話は戻るけど、さっき翔は、この映画を客観的に観てみようと思った、って言ってたけど、そういう‘謎解き’の部分としてはどうだったの?
  翔:いやぁ、それが、ほとんどそういう難しいこと考えないで観ていた。(笑)
  夢:あ、そうなんだ。(笑)
  翔:余計なことに腐心(ふしん)しなくていい、というか、画面の上に出て来たものを、素直に受け取って、素直に感想を持てる、というか。 ある意味、私としては、普通の映画の観方が出来るようになったかなぁ、と。
  夢:うんうん。
  翔:もっと突っ込んだ言い方をすると、田辺さんの中では、いろんなことにすでに決着がついているようにも思えたので。
  夢:・・・・・・・・
  翔:私としては、すごくホッとした部分もあったから。 ・・・・まぁ、その辺は、さっきも言ったように、しょせん私個人の想像・空想・妄想の類(たぐい)の話、ではあるんだけど。(笑) 
  夢:・・・・うーん・・・・
  翔:うまく言えないけど、『DOG・・』があって、『ライフ・・』があって、しばらく時間が経って、自然と、私の中の「人間・田辺誠一」という偶像が、本来‘あるべき場所’に収(おさ)まった、と言うか。 田辺さんを、純粋に、俳優として、監督として、見ることが出来るようになった、と言うか。 真っ当な「ファン」になれた、と言うか。(笑)
  夢:う~ん、なるほど。(笑) 
  でも、それって、田辺さん自身が変化したことによって『DOG』から『ライフ』へと作品の中身が変化して行ったから、ということもあるだろうけど、翔自身の変化、というか、翔が、田辺さんとの距離をうまく取れるようになったから、という気もするんだけど。
  翔:・・・・・・・・するどいね。(笑)
  夢:・・・・・・・・長いつきあいだから。(笑) 
  翔:確かに、私自身の変化、というのも、間違いなくある。 なぜそうなったか、というと、さっきも言ったように、この映画(特に『No where』)を作ることによって、田辺さんの中で、何かにピリオドが打たれた、と感じられたことが大きいと思うんだけどね、結局は。
  夢:うん。
  翔:だけど、それだけじゃなくて・・・・ 『ライフ』という作品ももちろんだけど、田辺さんのオフィシャルサイト(pleapswim)とか、俳優としてのたくさんの仕事とか、インタビューとか、そういうさまざまなものに接して行くことで、自然と、ゆっくりと、私の中で溶(と)けて行くものがあったので。
  夢:少しずつ少しずつ、って感じ?
  翔:そう。・・・・それから、奥山貴宏さん(注/編集者・ライター・小説家。2005年肺がんのため死去)のブログに偶然出逢ったのも大きかった。
  夢:ああ、やっぱり。
  翔:彼が、33歳の若さで亡くなる直前まで綴っていたブログを読んで、ああまでして書きたい!伝えたい!と思う気持ちって、いったい何なんだろう、と考え初めて、で、同じ 「ものを作る」 「ものを伝える」 というところで、私もささやかながら≪翔夢≫という場所を持っていて、じゃあ、私自身の「想い」って、どういうものなんだろう、と。
  夢・・・・・・・・
  翔:トークしたり、イラスト描いたり、小説もどきを書いたり、どうして そういうことがしたい と思うようになったんだろう、と・・・ そんなこんな、いろいろ考えて行くうちに、ふと、田辺さんの「作りたい」「伝えたい」想いに辿り着いて・・・・
  夢:うんうん。
  翔:作品として出来上がったもの、その内容から伝わるもの、だけじゃなくて、もっと根本、というか、最初、というか、つまり、「作りたい気持ち」という部分を、私はちゃんと受け取っていたんだろうか、と。
  夢:・・・・・・・・
  翔:出来上がってきた作品からいろいろなこと(田辺さんの内面とか?)を読もうとすることは、さんざんやって来たのに・・・ 勝手に妄想・空想して、勝手に言いたい放題して、勝手に傷ついたり痛がったりして・・ね。(笑)
  だけど、まぁ、妄想・空想過多ではあったとしても、 受け取った側の気持ちは気持ちとして、ちゃんと書いて、きっちり伝えることも大事だとは思う。 何をどう受け取ったのか、私はいつも、そこのところをきちんと言葉にしたい、と思っているわけだし。
  夢:・・・・・・・・
  翔:だけど、それだけじゃ いけなかったんじゃないか、って・・・・
夢:・・・・・・え?
翔: 田辺さんの「作り出そうとする想い」に対する理解、みたいなものが、まず最初に来なきゃいけなかったんじゃないか、って・・・・・
  夢:・・・・うーん・・・・・
  翔:本当に、最近、なんだけどね、そう思うようになったのは。
  夢:・・・・ようやく?
  翔:・・・・うん、そう・・・ようやく、だよね。 ようやく、田辺監督の「作りたい想い」「伝えたい想い」に、こちらの気持ちを馳(は)せることが出来るようになった、というか、まだ正確には、なりつつある、という段階なんだけど・・・
  夢:・・・・・正直だ。(笑)
  翔:何か・・ね、トークもイラストもそうだけれど、特に、自分も小説まがいのものを書いて、発表してみて、初めて解かったような気がする、田辺さんのその辺の気持ちが。 もちろん、私の書いたものなんかと比較するなんて、田辺さんに大変失礼な話ではあるんだけど。(笑)
  夢:うん。(笑)
  翔:まぁ、手段はどうあれ、そうやって気持ちを寄り添わせることが出来つつある、というのは、さっき夢も言ってたけど、私自身に、何かしらの変化があった、ということなんだろうけれど。
  夢:・・・・・・・・
  翔:でも、だからと言って、今さらかっこつけて、「あなたの気持ちが分かります、だからすべて好意的に受け取ります」なんて、私の性格からして、とてもすんなりとは言えないし・・・ 出来ないことを言っても始まらないし・・・(笑)
  夢:今さら出来ない、かぁ~。(笑) 
  翔:「気持ちが分かる」と「すべて好意的に受け取る」が、=(イコール)でなければならない、ということはないだろう、とも思っているので。
  夢:うんうん。
  翔:それに、そこ(田辺さんの「作りたい想い」への理解と共感)に辿り着いたからと言って、出来上がった作品に対する私の感想が、急に方向転換するわけでもないし、緩(ゆる)くなったり優しくなったりするわけでもないしね。(笑) 自分の気持ちは気持ちとして、きちんと自分の真ん中に持っていたい、とも思っているから。
  夢:わははっ・・・翔らしい! いいんじゃない? 結局、今までのまま、ってことで。(笑)
★    ★    ★
  夢:―――さて、ひとつひとつ作品を見て行こうか。
  翔:そうだね。
  夢:まず『LIFE』。
  翔:ひとりの女性の一生を、セリフなし、編集なし、ワンカット、で見せる、というアイデアというか着眼点は、ものすごくユニークだし、鋭(するど)いし、実験的な意味合いもあるし、私としては、非常に興味深かった。
  これ、実際にやったものを見せられたから、「なるほど」と簡単に言えるけど、考えて~作って、というプロセスの間には、いろいろな苦労があったんだろうな、と思う。
  夢:うんうん。
  翔:ただ、この作品を、「そこ」だけで評価してしまうのも、何だか私としては淋しいものがあるので、もうちょっと内容的なことも話したいんだけど。
  夢:うん。
  翔:編集なし、ワンカット、という部分を差し引いて、純粋に「女性の一生」という部分を観返した時に、その「時間の流れ」の表現の仕方というのは、とても詩的で、まるで絵巻物を観ているような気持ちにさせられたんだけど、一方で、あまりにもサラサラときれいに流れてしまって、まっすぐにこちらにぶつかって来ないもどかしさ、みたいなものも感じてしまって。
  夢:・・・・う~ん・・・・・
  翔:監督としては、あえてその辺を狙った、つまり、登場人物を、名前を持った「個」として存在させず、「女」と「男」という普遍的なものとして描きたかった、という意図があったのかもしれないんだけど、私としては、その、あまりにも「世界中のすべての人にあてはまる」ような感じが、逆に自分から遠い世界のことに思えて、画面のこちら側で置いてきぼりを食わされているような感じがして、淋しかった、というか、うーん、やっぱり、もどかしかった、と言うのが一番近いのかな。
  夢:・・・・・・・・
  翔:もちろん、その辺は、純粋に、個人的な好みの問題、とも言えるんだろうけど。
  夢:うん。
  翔:・・・・もどかしさ、と言えば、実は、登場する俳優さんたちに対しても同じようなものを感じていて。
  夢:俳優さんたち?
  翔:たとえば、女性を大塚寧々さん、相手の男性をラーメンズ小林賢太郎さんが演じてるけど、ふたりが、ふたりである必要があったんだろうか? 彼らでなければ表現しえないもの、が、あの作品の中に、どれだけあったんだろうか?
夢:・・・・・・・・
翔:もちろん、俳優は、監督にとっての「駒」であっていい、と私は思っているし、セリフなし、という、言わば俳優としての片羽根を奪われた状態で、あの空気感を出せた、ふたりだからそれが出来た、ということで、満足すべきなのかもしれないけど、でも、「演じている俳優」を観るのが大好きな私としては、ほとんど演じさせてもらえない、というか、演じようがない、というか、そういうあの状況を、俳優としての彼らは、どう感じたのだろう、と、そこのところが気になって仕方なかったのも事実で。
  夢:・・・・うーん・・・・・
  翔:うまく言えないんだけど、作品から醸(かも)し出された「情緒」のようなものの中で、俳優が演じることで生まれたものが、どれほどあったんだろうか、と。
  夢:・・・・うーん・・・でもそれは・・・・
  翔:難しいのは分かっている。 彼らが しっかり‘演じて’しまったら、ひょっとしたら、あの淡々とした漂うような独特の雰囲気(空気感)が失われてしまうかもしれないわけだし。 ・・・・だから、それは、あくまで私個人の嗜好(しこう)の問題、ということでいいんだろう、とは思ってるけど。
  夢:うん。
  翔:ただ、そんなこんな、この作品を観ていてたまった私のフラストレーションというか、抑制された気持ち、みたいなものが、ラストの、初めて正面を向いた女性(加藤治子)がリンゴをかじる、暗転して水が流れる、というところで、一気に開放されるような気もして、何だか嬉しくなったのも確かで。 もし、監督がそれを狙ったのだとしたら、これはもう素直に脱帽するしかないんだけどね。
  夢:うーん・・・なるほどねぇ。 
  翔:それと・・・これは『LIFE』に限らず、この映画全編を通じて感じることなんだけれど、すごくやわらかで優しい監督の視線、みたいなものを感じるんだよね。
  BBSのレスに 「神の視線」 「近寄りがたい」 と書いたけど、その辺の「もどかしさ」と同時に、今回観直して、この‘神’が持つ「ナイーブさ」、さらに 「優しい強さ」 「しなやかなたくましさ」 のようなもの、に思い至って、ちょっと幸せな気持ちにもなったので。
  夢:・・・・・・・・
  翔:少なくとも私は、『DOG』では、そこまで感じることは出来なかった。 『ライフ』で、そこに辿り着いた(と私に思わせてくれた)田辺監督への、緩(ゆる)やかな共感というか安堵というか、そういうものも、確かにあるので。
  夢:・・・・うん、うん。 ――ところで、ずっと訊いてみたかったんだけど・・・ 
  翔:ん?
  夢:翔は、あの「りんご」の意味っていったい何だと思う?
  翔:・・・・・・・・・・・ん~・・・解からない。
  夢:あれまぁ、あっさりと。(笑)
  翔:・・いや・・大きな意味で「愛」ということでいいんだろう、とは思うけど。 でも、あの「りんご」は、私にとって「解からないもの」でいいのかなぁ、とも思っているので。 あまりいろいろ妄想を働かせないでおこう、と。(笑)
  夢:なるほど「解からないでいい」か・・・うんうん、それでいい、ってことなのかもしれないね。(笑)
★    ★    ★
  夢:『ん』と『ヤ』。
  翔:『LIFE』に比べると、近藤公園さんにしても、市川実日子さんにしても、つぐみさんにしても、彼らが彼らとしてそこに居る理由、が、ちゃんとあるような気がしたし、このキャスティングはとてもいいと思った。
  夢:翔は、『ん』がお気に入りなんだよね。
  翔:はい。 『ヤ』は、後半、2人が自転車で疾走するところからは、とっても好きなのよ。 お店の人に「わっ」と叫んで「わ~っ」とチャリで逃げてしまうあたりとか、最後に、『ん』の近藤さんが出て来て、つぐみさんとしりとりするところとか。
  夢:うんうん。
  翔:だけど、前半、ふたりが部屋で会話する場面で、脚本の作為、みたいなものが、私にはどうしても感じられてしまって。 あそこで、もっともっと何気ない、いいかげんな、軽い会話になっていたら、『ん』と同じぐらい好きになってたんじゃないか、と思う。
  夢:何気なくて、いいかげんで、軽い・・・?
  翔:脚本が、あまりにも親切過ぎる気がする。 この作品を通して伝えたいこと、が、ふたりの会話の中で、「言葉」として語られてしまっている、そのつまらなさ、というか、説明文読んでるのを聞いてるような味気なさ、というか。
  そのあたりが、「言葉」でなく伝わっていたら・・・ せめて、もっと意味のない会話の中に紛れさせてくれていたら・・・ と。
  夢:うーん、そうかぁ。
  翔:その点、『ん』は、必要以上に「言葉」で説明されていなくて、観ているこちら側に委(ゆだ)ねられている部分がたくさんあって、かえって、いろんなことを空想したり想像したり出来たから、何だかわからないけど楽しい、と思えたのかもしれない。
  夢:何だかわかんなくてもいいの?(笑)
  翔:いいよ。 だって、委ねられているということは、ある意味、作り手が、観ている人間を信用してくれている、ということじゃないかとも思うから。
  夢:うーん・・・
  翔:『ん』では、‘遊び’の部分も楽しかった。 そもそも、このお話の骨格の部分~「しりとり」が、人と人との大切なコミュニケーションの方法になってる~というあたりからして、私には面白いと思えたし、そこから発展して、「ん」(あるいは、それに似た「終わりの言葉」)を最後に口にしてしまったことで終わってしまった恋人同士、という設定、そのふたりが、元に戻るきっかけも、また、しりとりである、というオチも良かったし・・・
  夢:うん。
  翔:たとえば、男と外国人のやりとりとか、バスの中の出来事とか、勧誘人と携帯女性とか、の、まるで四コマまんがやショートコントを続けて見せられている感じも、唐突なんだけど、楽しくて。(笑)
  夢:うんうん。(笑)
  翔:たぶん、この作品に浮き出ている「監督の遊び心」みたいなものが、私には、すごく嬉しかったのかもしれない。 それは、間違いなく田辺監督が最初から抱いていたもので、『SWIM2』や『眠らない羊』でも随所に見られた、つまり、彼が描きたい世界、の一つに違いないものなんだろうな、と思えたから。
  夢:・・・・・・・・
  翔:・・・・・ん?
  夢:・・・・あのね、今だから言えるけど、『SWIM2』のトークの時、その辺の話に至らないで終わってしまったことが、あたしとしてはちょっと残念だったんだよね。
  もちろん、まるで鋭い刃を突き付けられたようなところもあって、翔が、それをまともに受け止めてしまって、二進(にっち)も三進(さっち)も行かなくなってしまった、ってことは、十分理解してたつもりだけど、でも、あの作品の中には、それだけじゃない、田辺監督が持ってる、まさにそういう「遊び心」みたいなものも、いっぱい詰まってたのも事実だったわけだし。
  翔:う・・ん、うん。 
  夢:まぁ、あの時は、あえて不十分なトークで終わらせた、とも言えるわけだから、仕方ないんだけど。  
  翔:・・・・私もね、どこかであの時の決着をつけたいと思っていたのは確か。 夢の言うように、不十分なままでトークを終わらせてしまった、ということが、どこかで引っ掛っていたし。
  夢:うん。
  翔:で、この『ん』を観て、今、改めて思うのは、田辺さんが持つ、そういう非常にポジティブな部分、というか、人を楽しませようとするところ、というのは、ひょっとしたら、田辺さんの「演じる」上での「核」というか、「源(みなもと)」というか、にもなっていて、だから彼は三枚目を好んで演じたがっているのかなぁ、ということなんだけど。(笑)
  夢:ああ、うんうん。(笑)
  翔:『ん』に出て来るバスの男も、演じ手(俳優)というよりは、スタッフのひとりが突然ニュッと現われたように思えて、何だかとても面白くて。
  夢:へぇ~。
  翔:「演じ手」であると同時に「作り手」である、という二面性が、あの男にはあるような気がして。 私としては、あの男を田辺さんが演じてくれたことで、楽屋裏を覗いているような気分にもなれたので、すごく儲けたな、というか、お買い得な気分にもさせられたんだけど。(笑)
  夢:ふふ・・・面白い面白い。
  翔:田辺さんが「作る」時、その根底には、明らかに、この『ん』のような視点がある。 それを、今回、素直に受け止め、受け入れることが出来た、ということが、私にとっては、とても大きかった。
  夢:『SWIM2』で感想にならなかったリベンジの意味も含めて?
  翔:そうそう。 この『ん』があったから、たぶん、私は、『ライフ・イズ・ジャーニー』すべてを受け入れられたんだろうな、という気もしているけどね。
★    ★    ★
   夢:『No where』。
  翔:これは、「自分捜し」という意味で、『DOG・・』と繋がってる作品なんだろうなぁ。
  夢:何となく、自分に向かって作ってる、って感じがするよね。
  翔:そうだね。 でも、この作品は、「自分捜し」を映画作りと同時進行的に行なった『DOG』と違って、すでに「結論」に辿り着いている、その到着点から、逆に、そこに至るまでの道筋を追った、という気もするけど。
  夢:さっき翔が言った、「田辺さんの中では、いろんなことにすでに決着がついているように思えた」というのは、そういうこと?
  翔:そう。 『DOG』で一歩を踏み出した男が、その後どうなったのか、それを描かなければちゃんとピリオドを打てない、と思って作った作品が、この『No where』だったんだろう、と。
  夢:う~ん・・・・
  翔:その辺の気持ち、というのは、非常によく分かる気もする。 『DOG』の時のように、こちらに斬り込んで来るような‘切実な重さ’を受け取ることがなかったので、ホッとしたし、でも、逆に、だから焦点がぼけてしまった、とも言えるのかもしれないけど。
  夢:・・・・それでいい、とも思ってる?
  翔:「この作品を作った」ことに関しては、ね。 まぁ、作品の内容としてはまた別で、注文もちゃんとあるんだけど。(笑)
  夢:(笑)・・・たとえば?
  翔:これも『ヤ』と同じで、言葉で説明されていることが多いような気がした。 男の独特の浮遊感・喪失感みたいなものを、もっと言葉でない違った形で・・・たとえば映像で、伝えることは出来なかったんだろうか。
  夢:うーん・・・・
  翔:その点『DOG-FOOD』は、その辺りを、うまく、いろいろなエピソードとか風景とかに変換出来ていたように思うんだけど。
  夢:・・・・・・・・
  翔:あるいは、「言葉」という方法であっても、ストレートに伝えたいことそのものを言うんじゃなくて、もっと周到に練り上げて、他の言葉で伝えようという意志があってもよかったんじゃないか。
  夢:・・・・・たとえば?
  翔:男が、レストランで、女に「人生の意味」みたいなことを言うシーン。
  夢:うん。
  翔:あの場面では、男が抱えていた喪失感や浮遊感が何だったのか、3月23日と4月3日が男にとってどういう意味をなすのか、その説明だけで十分だったと思うんだけど、「人生の意味」という言葉で、これからふたりで探すものが、すごく重いものになってしまったんじゃないか、と。
  夢:・・・・・・・・
  翔:3月23日通りの移動遊園地で老人が話すナレーションも、私には、必要ないものに思われた・・というか、ストレート過ぎた気がする。 3月23日通りに移動遊園地があった、というそれだけで、十分こちらに伝わって来るものがあったんだから。
  夢:・・・・・・うーん、何と言うか、とっても律儀(りちぎ)なのかなぁ。
  翔:そうなんだろうね、きっと。 私は、田辺さんのそういうところは、決して嫌いじゃないんだけれど、もっと、言葉だけでないもので勝負出来たんじゃないか、という思いもあるので。 これは「小説」じゃない、「映画」なんだから。
  夢:うんうん。 ただ、画像としてはすごく綺麗で素敵だったと思うけど。
  翔:確かに。 とにかく「絵」の切り取り方がすごく良かった、というのは、私も強く思っているところ。 シーンごとのカメラアングルが良くて、見惚れてしまうこともしばしばだったから。
  夢:そうだよね、やっぱりこの作品は、外国で撮って正解だったと思う。
  翔:そうだね、3月23日通りから順に、幼稚園、小学校・・と辿(たど)って、4月3日通りにいる男を見つける、という、そこに流れる時間と景観は、これはもうリスボンという街は最高だった気がする。
★    ★    ★
  夢:ちょっとびっくりしたんだけど、翔は、作品それぞれに流れるエンドクレジットが面白い!と思ったんだって?
  翔:私、ひょっとしたら、この映画で最も「田辺らしさ」を感じたのは、エンドクレジットかもしれない。(笑)
  夢:ええ!?(笑)
  翔:いや、4つのクレジットを観た時に、そのロゴとか、並び方とか、動き方とか、が、それぞれ違っていて、キャストもスタッフも撮っている機材もみんな同じ扱いのもあれば、きちんとスタッフの肩書きが入ってるのもあったり、『ヤ』のクレジットでは、ヘアメイクのところがヘヤーメイクになってたり、と、とにかくこれは相当考えて、並べて、動かしたんだろうな、ということが、ひしひしと伝わって来たので、なんだか素通り出来なくて。(笑)
  夢:ふ~ん・・・あたしはそこまで気がつかなかったなぁ。(笑)
  翔:まぁ、ああいうところで凝ってもらうのは、私としてはとても楽しいので。
  撮った後の処理、映画を完成させるための最終的なコーティング、と言ったらいいのかな、そういうところでの田辺編集のこだわり、というか、オタクぶり、というか、そういうのは、「感情過多」になっていない分、こちらとしてもすんなり受け止められたような気もするし。
  夢:感情過多・・・・田辺さんが?
  翔:田辺さん、も、観てるこちら側も・・・お互いに、ね。(笑)
  夢:その辺への着目、というのは、翔としては、アップルのインタビュー(Net1参照)の影響が大きかったのかな?
  翔:確かに、あのインタビューで、田辺さんの編集への のめり込み方 みたいなものを知ったのは、大きかったかもしれない。
  ああいう楽しさ(見せる工夫へのこだわり)というのは、スケールの絶対的な違いはあれ、こちらも、≪翔夢≫を作っていて、常々感じている部分でもあるので。(笑)
  夢:なるほど~(笑)
  翔:「創る楽しさ」「創る喜び」「創る苦しみ」「創る悩み」・・・・そういうものを、俳優とは別なところに持っている、ということ。 それは、へたをすると「諸刃の剣」になる可能性もあるけれど、今の田辺さんにとっては、むしろ、お互いがお互いを支える、大事な「つっかえ棒」になっているのかもしれない、と。
  夢:・・・・・・・・
  翔:・・・・・・・・ん?
  夢:いや・・・翔も、そこまで歩み寄れるようになったんだなぁ、って。 今まで、田辺監督に対して、すごく反発してるような気がしてたから。(笑)
  翔:・・・・・・少し、大人になりましたかね、私も。(苦笑)