大奥~華の乱(talk)

2005・10-12放送(フジテレビ系)
★このトークは、あくまで、翔と夢の主観・私見によるものです。

夢:このドラマに出るって聞いた時、田辺さんもついに『大奥』に出るようになったんだなぁ、と思ったんだけど。(笑)
翔:思った思った。(笑)
夢:翔は、ちょっと腰が引けてたよね。
翔:『大奥』=ドロドロ昼ドラマ系、という先入観があったから。 私はそういうのが苦手だったので、正直、ちゃんと観続けられる自信がなかった。
夢:案の定、田辺さんが出演していない回は、サラッと流してた。(笑)
翔:・・・はい。(笑) でも、今回は、きちんと最初から最後まで全部観たけれど。
夢:あ、そうなんだ。 で、どうだった?昼ドラマ系『大奥』は。
翔:面白くて、どんどん引き込まれながら観ているうちに最終回になってしまった。(笑)
夢:そうでしょう? 昼ドラマを馬鹿にしちゃいけないんだよ。
翔:先入観で判断しちゃいけない、と、ちょっと反省しました。
★    ★    ★
夢:翔が、このドラマで一番面白いと思ったところって、どんなところなの?
翔:まず脚本がしっかりしている、ということ。 歴史的な背景と登場人物の絡(から)ませ方、登場人物ひとりひとりの存在理由、感情の細やかな動き、が、丁寧に無理なく描かれている。
夢:うん。
翔:もちろん、かなり大胆に脚色された部分も多いし、いくらドラマ(=虚構)でも、そこまで曲げてしまっていいのか、というところもあるんだけど、それも、「なるほど、そういう見方・考え方・解釈もあるのか」という、ある意味「ドラマ」として許される範囲だったようにも思うので。
夢:出てくる人たちの個性、というのも、すごく広範囲で面白かったよね。
翔:それぞれの立場、というのが明白で、その中での感情の揺らぎというのが、観ていてまったく不自然じゃないので、性格のいい人はもちろん、悪い人も、そうなってしまった哀しみ、みたいなものがちゃんと背景に見えて来て、だから、みんな、薄っぺらじゃなかった。
夢:うんうん。
翔:このところ、そういう人物背景がしっかり出来上がっていないドラマを観ることが多かったせいか、そのあたりの「深さ」がすごく心地良かった。
夢:連続ドラマとしての流れというか、テンポも良かったよね。
翔:大奥という狭い空間の中の話なのだけど、安子の敵が次から次へと変わるので、動きがあって飽きなかった。 間延びしてしまうところがなかった、というか。 さっきも言ったように、登場人物それぞれの立場と感情とが きちんと描かれていた、というのが、大きかった、と思う。
夢:演じている俳優さんたちも、適材適所、って感じだった。
翔:「大奥」だけあって、女性陣が華やかだった。 安子(内山理名)・お伝の方(小池栄子)・信子(藤原紀香)・右衛門佐(高岡早紀)・染子(貫地谷さおり)らの中堅・若手に対して、桂昌院江波杏子)・阿久里(萬田久子)・音羽余貴美子)というベテラン陣がうまくワキを支えていて、でも、いざという時にはしっかり前に出て来る、という、さすがの演技で。
夢:ごひいきの余さんが出てたから、翔としては嬉しかったんじゃない?
翔:どういう役をやっても間違いのない人、違和感を持たせない人なので。 ドスのきいた話し方も心地よかったし。
夢:うん。
翔:江波さんは、最期のシーンが印象的だった。 大奥の最たる権力者と思われた桂昌院が、実は、大奥(=春日局)の呪縛にがんじがらめになっていた、という、彼女なりの哀しさが浮き立っていて。
夢:うんうん。
翔:内山さんは、どこかに「硬さ」みたいなものがあって、そこが逆に、安子という役には合っていた、という気がする。 小池さんや藤原さんは、私の苦手なドロドロの部分を受け持っていたわけだけど、ふたりとも普段はさっぱりしているところがあるので、嫌な感じに粘質にならなくて、それがかえって良かったように、私には思われた。
夢:なるほど、なるほど。
翔:高岡さんや貫地谷さんは、演じている右衛門佐とか染子という役そのものが好きだったこともあって、惹かれてしまいました。
夢:翔は、右衛門佐という役が好きだって言ってたよね。
翔:ああいう、ちょっと離れて全体を見ている、みたいなポジションが、すごく面白いと思うので。 高岡さんがまた、いかにも「かしこい女性」という感じで、ドロドロの愛憎劇から逸(そ)れた、大奥の政治的な部分をうまく受け持ってくれたと思うし。
夢:うん。
翔:まぁ、個人的には、桂昌院との確執をもうちょっとしっかり見せて欲しかった、というのはあるけれど、それをやってしまうと、このふたりが主人公になってしまいそうなので・・(笑)
夢:面白かったけどね、大奥の覇権争いみたいなものも。 でも、確かに、そこに重点を置いてしまうと、安子中心に話が進まない、というのはあったかもしれない。
翔:そうだね。
夢:男性陣はどう?
翔:やはり綱吉でしょうね。 谷原章介さんは、こういう役になると、本当にうまい。 綱吉の悲哀、寂しさ、空洞になった心の表現、あたりは特に素晴らしかった。
情けなさとか、権力を持った者の強引さ・わがままさ・・・強くて怖い人間でもあり、道に迷った子供のようでもあり・・・ その、綱吉の人間としての複雑な部分を、まったく違和感なくひとつの役の中に練り込んでいた、というところがすごいと思った。
夢:けっしてかっこいい役じゃないよね。
翔:でも、最後の最後、ギリギリのところで、「二枚目・谷原章介」好きなファンを裏切らない、「きれいな演じ方」をしている。 だから、こういう役を観せられても、谷原さんのファンは、谷原ファンで居続けられる、という気がする。
夢:・・・ん・・・?
翔:谷原さん自身の芯が崩れない、というか、決定的に自分を崩すことをしない、というか。 たとえば、彼がもし『スクールデイズ』の鴻ノ池先生を演じたとしても、田辺さんほど、根っこから崩れない、という気がするから。(笑)  
夢:ああ・・・・なるほど~。(笑) ――柳沢吉保役の北村一輝さんについては?
翔:北村さんは、もう、ひとつの「色」を持っている。 彼もまた、しっかりとした「北村一輝としての芯」があって、それを裏切らない確実な演じ方(かなり振り幅は広いけれど)をする。 「どんな突拍子もない役をやっても、北村一輝だったら許される」という固定観念を、観る側に、うまく植え付けてしまっている。 それが、どんな役でもこの人に任せておけば大丈夫、という、制作側の信頼にも繋がっているような気がする。
夢:うん。
翔:それは、北村さんが、ドラマの中での自分のポジションを、いつもしっかり掴んでいるから、なんだろうと思う。 彼が演じる役は、他の人とあまり かぶらない個性的なものが多いから、掴み易い、ということもあるのかもしれないけど。
それにしても、常に一定のクオリティを保つのは、容易なことじゃないから。 ・・・谷原さんにしても同じことが言えるけど。
夢:そうか~。
翔:それにしても・・・・
夢:・・・・・ん?
翔:田辺さんが演じた吉保(@イヌと呼ばれた男)と、なんでこんなに違うんだろう、と。(笑)
夢:というか、北村さんの方が、本来みんなが持っている吉保のイメージに近いよね。(笑)
翔:まぁ『イヌと呼ばれた男』(TVdrama.29参照)自体が、ファンタジー要素の濃いドラマだったから、比較しちゃいけないんだろうけど・・・(笑)
夢:その辺が、田辺さんの面白いところ、とも言えるのかな。
翔:実在の人物にしても、小説やマンガとかの原作物にしても、その人物に対する皆の固定観念を 必ずどこかで裏切る、みたいな・・・外見はピッタリイメージ通りなのに、中身はどこか違っている、みたいな・・・(笑)
  だからこそ、たとえばこの柳沢吉保を、田辺さんだったらどう演じたか、という興味も大きいんだけれども。
夢:ああ・・・そうかぁ。
★    ★    ★
夢:さて、その田辺さん。 リアルタイムで観ていた時の翔って、田辺さんが演じた牧野成住に対して かなり厳しいことを書いていた、という覚えがあるんだけど。
翔:「時代劇」として観た場合、セリフの言い方や動きに違和感があった場面がいくつかあったから。 まぁ、それは、いつものように、私の個人的な感覚に過ぎないのかもしれないけど。
夢:所作とか、セリフの言い回しとか、殺陣とか・・って、翔は、時代劇の田辺さんに対して、必ずと言っていいほどクレームをつけるよね。(笑)
翔:昔から時代劇をよく観ていたので、時代劇の「型」みたいなものに頑固な思い入れがあるからなのかもしれない・・・(苦笑)
夢:頑固な・・・ね。(笑)
翔:「時代劇の香り」みたいなもの ってあると思う。 そういうものを、田辺さんなりのやり方で次の時代に繋げて欲しい、という思いがあるので・・・・
夢:・・・・・・・・
翔:たとえば、『忠臣蔵』の清水一角(TVdrama.24参照)には、そういう「田辺流 時代劇の香り」みたいなものが、ほのかに漂っていたような気がする。 「時代劇」というワクの中だからこそ発揮される特別なもの、って、田辺さんの中に確かにあると思うから。
夢:うん。
翔:この成住にしても、そういうものをうまく醸(かも)し出している、と思うところも多かったのだけど、それが、最初から最後まで一貫していなかったような気がしたので。
夢:それはどうしてなんだろうね。 一角の時に表現出来たそういうものが、成住では十分じゃなかった、というのは。
翔:今回は、『忠臣蔵』のような本格時代劇とはちょっと違った、『大奥』という、女性中心のドラマということもあったし、あるいは、成住の若さを出したい、という気持ちもあって、田辺さんとしては、そのあたりにあまり神経質にならずに、役作りしよう、と考えたのかもしれない。 
夢:うん。
翔:実際、成住の、若さから来るのであろう「実直さゆえの愚かさ」みたいなところは、すごく興味深かったんだけど。 
時代劇の型に嵌(は)まっていない、という点では、牧野家のホームドラマの部分で、特に違和感が強かった。 何となく、ピリッとした空気が足りない感じがしたので。
夢:でも、翔は、『風林火山』では、「時代劇調」にしっかり染まった田辺さんに、逆にちょっと違和感抱いた時もあったじゃない? 美瑠姫との絡(から)み あたりで。
翔:その辺の感覚というのは、非常に微妙なんだけど。(笑)  まぁ、小山田信有の話は『風林火山』のトークの時にゆっくりするけど、ようするに、「時代劇の型」を、どこで外すか、ということで。
夢:・・・・・・・・
翔:成住で言えば、安子とふたりで語り合うシーンなどは、あまり「型」に拘(こだわ)らなくてもいいところだと思うし、事実、すごくやわらかくていい雰囲気が出ていたと思う。 
夢:うん。
翔:逆に、小山田の場合は、美瑠姫とふたりだけのシーンでも、田辺さんが「型」に縛られていたような気がしたので。
夢:うーん・・・そうかぁ・・・
翔:すべてを「型」に嵌め込むだけでもダメだということ。 その取捨選択をどうやっていくか、というのは、その俳優さんのセンス次第なんじゃないか、と。
夢:難しいね・・・
翔:だけど、この「型」にうまく嵌まると、もうゾクゾクするような魅力的な雰囲気も生まれる。 成住の平伏する姿、というのは、本当に美しかったし、編み笠越しに安子を見守る複雑な視線なども、時代劇だから観られたものだと思うので。
夢:安子と一緒にいる時より、離れている時・・たとえば、今 翔が言った、綱吉に頭を下げている時だとか、境内から安子を見つめている時とか、の方が、ずっと「安子恋し」の気持ちがストレートに表現されていたような気がするのは何故なんだろうね。
翔:それはやはり、夢も私も、田辺さんが、そういうふうに、何かに耐えつつ、遠くからヒロインを見つめ、守る、というシチュエーションが大好きだから、には違いないんだろうけど。(笑)
夢:・・・あ! そうかそうか。(笑)
翔:ただ、「時代劇の型」については、成住から2年以上経って、明智光秀(@信長)や小山田信有(@風林火山)を経て、今、『IZO』で武市半平太を演じている田辺さんを観ると、かなり自分なりの完成形が出来上がりつつあるんじゃないか、ということも感じる。
夢:・・・・・・ん?
翔:「時代劇の型」に いい意味であまり囚(とら)われない、というか、「型」自体をぐっと押し広げて、その中で余裕を持って演じている、というか。 それは、時代劇を今までいろいろやって来た中で、田辺さんが、徐々に掴んで行ったものに違いないんだろう、と。
夢:・・・・・・・・
翔:こうやって成住のことをいろいろ話している・・・好き勝手に言いたい放題している・・・ すると、偶然にも、その「応(こた)え」が、ちゃんと数年後の武市半平太の中に用意されていたりする・・・
夢:うんうん。
翔:それが、田辺誠一という俳優を長年追いかけている者だけに与えられる醍醐味であり、至福なんじゃないか、なんて、最近よく思うんだけど。(笑)
夢:長年・・・ね!(笑)
翔:時代劇だけじゃなくて、それはもう、すべてにおいて、だよね。 演じることすべてにおいて、物足りなさを感じたり、疑問を持ったりしても、必ず数年後には、その応えが、自分が期待していた以上の形で返ってくる。 こうやって、ちょっと昔の作品を振り返ってみると、なおさら、そのことがよく分かる。 
夢:だからトークを止(や)められない?(笑)
翔:そうそう。 で、遠慮なく何を言ってもいいんだ、と、ますます開き直る。(笑)
夢:ふふふ・・・
翔:だって、どこまで変わって行くのか、まったく読めない俳優なんだもの。 言っちゃったもん勝ちかな~って。(笑)
夢:そうか!言っちゃったもん勝ち、かぁ~!(笑)

以下は、BBSに載せた『大奥~華の乱』の感想です。
『大奥』 投稿日:2005年10月15日(土)
思ったよりも、きちんとストーリーが出来上がっているなぁ、という印象。
ドラマとして、面白かった。
安子が綱吉への復讐を誓うまで、が、無理なく描かれていて、
正直、こういうタイプの時代劇が苦手な私としても、
あまり拒否反応なく観ることが出来ました。

綱吉や吉保が、ステレオタイプとしてではなく、
ちゃんといくつかの色を持っているように描かれていたのも、良かった。
綱吉役の谷原章介さんが、思いのほか、なかなかいい味出してましたね。
北村一輝さんは、まだまだこれから、なんでしょうが。(笑)

あと、印象に残ったのは、安子の父・成貞役の平泉成さん。
時代劇に必要な重さ、みたいなものがあって、観ていて心地良かった。

男性陣に比べると、女性陣が弱い気がしました。
余さんあたりの役が、今後きちんと出来上がると、違って来るかもしれない。
今後興味あるのは、高岡早紀さん、あたり。

さて、田辺さん。
・・いい表情するようになりましたね。
安子を愛し、守る、という、そのしっかりした強さ・決意を、
表情やセリフにまっすぐに乗せられるようになったんだなぁ、と、なんだか嬉しかった。
そういういい表情が出ているシーンは、
田辺さん自身も、たぶん、迷いなく演じることが出来ているんでしょうね。
ただ、成住という役を最初から最後まで通して観ると、
まだ、どこかに迷いや戸惑いが感じられるような気がする。
ちゃんと掴んでる、その掴み方は、間違いないものに思えるのだけれど、
時に、掴み切れない場面になると、何となく揺らぎが見えるのです。

素晴らしい、と思えば思ったで、さらに「その先」を求めたがる、
なんとワガママなのだろう、と、自分でも思う。
でも、もっともっと、とあおり立てれば、さらに上を見せてくれる人であることも、
また、間違いないので。(何度も経験済み)
スロースターター田辺、まだ成住を完璧には自分のものにしていないんじゃないのか?
と、ちょっと皮肉のひとつも言っておこう。(笑)

Re:ありがとう  投稿日:2005年10月17日(月)
私も「モヤッと感」がありました。
それは何かな、と考えていたのですが・・・・
結局、このドラマを「本格時代劇」として観てはいけないんだ、
これは、要するに「昼ドラ」なんだ、ということは分かってる、
分かってるんだけど、そうすんなり納得してしまうことに、一抹の寂しさを感じた
からなのかもしれないです。
(そうそう頻繁には味わえない「時代劇の田辺誠一」だから特に)

たとえば、田辺さんが清水一角役で出演されてた『忠臣蔵~決断の時』。
あの作品、私は、かなりグレードが高い、というか、ほぼ満点に近い「本格時代劇」
だと思っていますが、
ああいう作品と並べてしまっちゃいけないんだ、と。

そもそも『大奥』とは、時代劇の姿を借りた「昼メロ的ドロドロドラマ」であって、
このドラマの作り手は、確信犯的にそういうドロドロを作り出そうとしているんだ、
ということも ちゃんと分かってるし、
‘そういう視点’から観れば、このドラマは、十分良い点を与えられる出来だとも思ってる。
だけど、だけど・・・・

このドラマが、逆に、「本格時代劇」として作られていたら・・・・
成住が、安子の夫として、だけではなく、‘武士’としてもまた、
綱吉に対して、もっともっと複雑な感情を抱くことを許されていたら・・・・

田辺さんの成住、
あの限られた脚本の中で、安子の夫、という立場としては、
本当に素晴らしい演技をしてくれた、と思う。
まっすぐに安子を愛す、その揺らぎなく強い愛情に心置きなく酔える、
そのストレートな表現に照れることなくこちら(私)の気持ちを乗せられる、
(その幸せは、あるいは一角の時でさえ、味わえないものだったかもしれない)
そのことを、とても嬉しく思う、本当に心から嬉しく思っている、
のは間違いないんだけど・・・・

実は、観ていてどんどん「モヤッと感」が強くなってしまったのも、また事実で。

私が、一角が素晴らしい、と思うのは、
まさに「時代劇」の中に生きている人間(=武士)として、
揺らぎなくまっすぐにこちらに伝わるものがあったから、です。

今回の成住はどうか。
田辺さんはきっと、現代劇に近いものとして、この役を演じているんじゃないか、
と思うのですよね。

いや、田辺さん本人には、そういう意識はなくて、
ただ素直に、自分の感じるままに演じてるのかもしれないんだけど、
少なくとも私には、一角では爪の先まで「武士」であることを意識したであろうのに、
今回、そういう‘意識’があまり感じられなかった、
「時代劇を演じている緊張感」みたいなものが、
場面によっては感じられなかった、ような気がするのです。

立つ、座る、歩く、笑う、話す・・・・それらの何げない行動・しぐさの中に、
かすかな破綻が見られた、というか、
ふとした緩(ゆる)みが感じられる時があった、と言えばいいか。

でも、私、さっき、これは「昼ドラ」なんだ、と書きましたよね。
だったらそれでいいんじゃないのか、現代劇として演じることがなぜ悪い、
という話になるんだけど、
成住の悲劇は、まさに「武士」ゆえの悲劇なんですよ。
だとしたら、たとえドラマ全体としては「昼ドラ」であっても、
脚本としてどういう描かれ方をしていたとしても、
成住(を演じる田辺さん)自身は、武士としての気概、気骨、のようなものを、
いついかなる時であっても、
きちんと持ち合わせていなければならないんじゃないか、とも思うのです。

~~~ここまで書いて来て思ったんだけど、
私が兵四郎(からくり事件帖)をある部分で非常に買っていながら、
ある部分でどうしても納得が行かなかったのは、
きっと、そういうところだったんだなぁ~~~

ただし、今回の『大奥』では、
谷原さんも、北村さんも、そういう部分は弱いと感じられたので、
田辺さんばかりじゃない、ということかもしれません。
で、そういう中では、やはり年の功でしょうか、平泉さんが、そのあたりを
一番きちんと掴んでいたように私には思えたので、
「印象に残った」と書いたわけなんです。

成住の「当て馬論」ですが。 たぶん当たってますよ。

ただ、今後、成住が、安子の心にしっかりと食い込めば食い込むほど、
安子の切なさ、苦渋、は色を増し、ドラマ全体の悲哀は増幅されることになる。
たとえ当て馬であったとしても、
安子にとって、ドラマにとって、そういう存在であるなら、
「成住の最期」を観終わった後、
私は、十分に満足出来るのではないか、と思っているのですけどね。

Re:ありがとう  投稿日:2005年10月20日(木)
1話の、安子とふたりだけのシーン。
‘あれ’が出来ないと、本当の意味での「昼ドラ的悲劇の当事者」は出来ない、
と思ってましたからね、私は。(笑)
いや、正確には、速水や一角の切なさ+成住のまっすぐな想い、
そのどちらも必要なんだ、と。

私は待ってたんですよ、
こういう役を、こういうふうに演じてくれる田辺誠一を!
なので、
「‘昼ドラ的悲劇の当事者’バンバンおいでなさい!
うちの田辺(!)が、いかようにも料理してさしあげてよ!」
ってな気分です、今は。(わはは~ワルノリご容赦!笑)

『大奥』第2話   投稿日:2005年10月21日(金)
後半、成住が登場して以降の一気に畳み掛ける展開は、
こうなるんだろうな、とは読めていたにしても、なかなか面白かった。

自分でも驚いたのだが、
今回、実は、綱吉の前で平伏している成住を観られただけで、
かなり満足してしまっている自分がいた。

頭を下げた時の角度、手先まで張り詰めた緊張感、
首から背中のピンと伸びたラインが、とにかく綺麗で、惚れ惚れ。
しかも、その時の成住の表情が、ものすごく複雑なものを孕(はら)んでいて、
まさに「これぞ武士」という感じで、
ああ、私は今、時代劇を観てるんだなぁ、と、すごく惹き込まれた。

その場面ばかりでなく、田辺さんは、動きのあまり激しくない場面では、
間違いなく、観ている人間を引き込み、魅了する術(すべ)を身に付けている。
初回の、安子との語らいの場面しかり、
今回の、茶室の場面や、寛永寺で安子と眼を合わせる場面、
牢に閉じ込められた場面しかり。

そういう時の、画面に映し出される成住の表情の繊細な‘揺らぎ’は、
これでもかこれでもかと多用されるアップにも、けっして負ない、
田辺誠一だけが表現しうる、極上の感情表現――

観ている者が、有無を言わされないまま、
強引に気持ちを持って行かれる、心を掠(さら)われる、
その「力強さ」は、‘今’(これから)の田辺誠一にしか味わえないもの――

しかし。
そこに激しい動きが伴うと、その力強さが、途端に消えうせる。
どこかに破綻が見え、弱々しさが覗く。

いや、もしかしたら田辺さんは、
成住の‘若さ’を表現しようとして、わざとそうしたのかもしれない。
または、成住の心の痛みに出来る限り寄り添い、
その痛みを、素直に、正直に表現しようとして、あの表情になったのかもしれない。

しかし私は、時に 美しい とさえ思える‘静謐(せいひつ)さ’‘清冽さ’を湛える あの成住ならば、
いついかなる時も浮つくことなく、丹田(たんでん)に気を集中させ、
たとえ切腹しようとする時であろうが、愛する人を刺し殺そうとする時であろうが、
やはり、激しく煮え立つ気持ちを抑えに抑えて、
抑制を義務づけられた‘大人’の‘武士’として、事に及ぶのではないか、
という気がしてならないし、
そういうふうに表現することが、実は、観ているこちら側に、
一番ストレートに、間違いなく、成住の感情が伝わる方法である、とも思うのだ。

人間として、成住の感情に寄り添って、真っ直ぐにそれを表に出して表現すべきか、
俳優として、その感情を最も伝わりやすくするために、抑えた嘘をつくべきか、
田辺誠一に求められているものは、いったいどちらなのだろう・・・・

Re:ありがとう   投稿日:2005年10月21日(金)
イヌと呼ばれた男』の時は、時代劇を観てる、という感じがしなかったんですよね、私は。
あれは、時代劇の姿を借りた現代劇(しかも社会派)だと思っていた。
だから、基本的な時代劇の所作さえちゃんとやってもらえれば、
あとは本当に自由に役作りしてもらって構わなかったんですけどね。
今回は、そういうドラマじゃなかったから。(と、少なくとも私はそう思ってる)

演じ手が役の心に添って演じることは、とても大切で重要こと、なのは確かです。
その点、田辺さんは、きっちりと成住の心に入り込んで、役を作っていた、
とは思うのですが、それを「見せる」というところで、
正直に演じ過ぎちゃってる気がします。
現代劇の場合、きっとそれでOKの時もあるんだろうけど、
時代劇となると、それを抑えて、ブレーキかけつつ演じた方が、
ずっとこちらに伝わりやすくなるし、
見栄えも良くなる(これけっこう大事。笑)んじゃないか、と、私は思うのですけどね~。
ほんとのところはどうなんだろう・・・・

今さら『大奥~華の乱』  投稿日:2006年1月24日(火)
成住(を演じた田辺誠一)のファンという眼で見れば、
吉保(北村一輝)に人質として利用されるためだけに長い間幽閉され、
あげく返り討ちにあってあっさり死んでしまう、というのは、
まったく、あっけなくてそっけない最期だった、と残念に思う気持ちも確かにあるけれど。

私が、特にドラマの終盤を観て思ったのは、
吉保が成住を生かしておいたのは、もちろん安子(内山理名)に対する切り札、
ということもあっただろうけれど、
むしろ、この夫婦の行く末を見たい、という気持ちから、だったんじゃないか、と。

安子を綱吉(谷原章介)に奪われた成住が、
新しい領地と妻を与えられた後、綱吉に拝謁する、その時に、
綱吉から「まだ安子を忘れられないのか」と言われ、硬い表情を浮かべる、
その横顔を、吉保が興味深げに見る。

その時の吉保の気持ちは、
男ならば、立身出世の為に妻や家族を犠牲にするのは当然、
たかが女ひとりいつまでも忘れられない成住に対して、
情けない奴、女々しい奴、と思った・・
と同時に、いつまでも妻を想い続ける成住に対する純粋な興味、というのも
あったんじゃないか、と思う。

一方の安子は、綱吉の側室となっても、大奥の権力争いの外にいて、
綱吉の寵愛を受けることに必死になっている他の女たちとは一線を画し、
心はいつも成住の許(もと)にある。

そんなふたりが、権力に引き裂かれ、運命に遊ばれつつ、長い時を経て、
それでも失わない「絆」を繋ぎ続けることが出来るのか否か。

絶対に壊れる、そんな「愛」など存在しない、と、吉保は確信していたに違いない。
自分はそうやって生きて来た、それがこの時代に生きる者の唯一の道だと信じて。
だから、愛する染子(貫地谷しほり)を躊躇(ちゅうちょ)なく綱吉に差し出した。

けれど、吉保の子である吉里を綱吉の子として認めさせるため、
染子に「自分を殺してくれ」と頼まれた時、
吉保の心に、成住・安子夫婦の「ゆるぎない愛」が、
かすめて行ったりはしなかっただろうか。
ひょっとしたらあんなふうに、
ただ、愛する者とささやかな幸せを紡いで行くことだけを求めること・・
そういう生き方を、染子と共に求めること・・
この刃を捨てれば、もしかしたら・・・・と。
けれども、吉保はそうしなかった。
それは、今まで自分が信じて来たものを、自分の生き方を、
すべて否定することに他ならないから。
そして染子の胸に刃を突き立て、
さらに、ただひたすら安子を守る為に、自分に刃を向けた成住を返り討ちにして・・

成住の命を絶った時、吉保の心に敗北感はなかったんだろうか。
本当は、成住のように・・
成住が、愚直に信じ、愛したと同じように・・
自分も、すべてをまっすぐに信じ、愛したかった。
権力への野心とは遠いところで、自分の心に素直に生きること、
それは、この時代の武士にとっては、「負け犬」でしかないのかもしれないけれど。

吉保にとって、成住は、「もうひとりの、なりたかった自分」。
綱吉の死後、すべてを失った吉保は、
そうなってみてようやく、そのことに気づいたのでは、と。

そしてきっと、綱吉にとっても、
安子に最後まで愛された成住は、「もうひとりの、なりたかった自分」だったのではないか。

権力の頂点に立った者が、最期まで求めず得られなかったもの、を・・
野心に燃え、時代の寵児とまで言われた男が、失って初めて気づいたもの、を・・
成住は、成住ひとりだけは、最初から最後まで持ち続け、
与えられ続けていた・・・・

『大奥』は確かに「女のドラマ」だったには違いないけれど、
一方で、「ふたりの飢(かつ)えた男と、ひとりの満たされた男の物語」でも
あったのかもしれない。