『スクールデイズ』感想:2

スクールデイズ』感想:2
すみません〜〜
前回の『スクールデイズ』初見の感想、ずいぶん抽象的ですよね。
自分でも、「結局 何を言いたいんだ?」って感じです。(笑)

うーーんと、言い訳させてもらえば、
私としては、すごく感想が書きにくい映画だったんですよ、実は。

最初に、特典ブックレット「キテレツ!スクールデイズ大百科」を
読んでしまったからかもしれないんですが、
映画の中のドラマと、映画の中の現実と、私たちがいるこの世界とが、
頭の中で渾然としてしまって。


しかも、ドラマの中の晴生(森山未來)や鴻ノ池(田辺誠一)はもちろん、
ドラマから離れて日常に戻ったはずの
「高校生の晴生」や「俳優・赤井豪」も、
晴生の両親(鶴見辰吾いとうまい子)も、同級生(小林且弥・他)も、
やっぱり、どこか「ドラマ的嘘っぽさ」で、
みんなリアリティがない、というか、生々しさがない、というか、
だから、現実の世界で晴生がいじめられている、というのは、
本来なら(ドラマだと分かっていても)観るのがすごく辛かったり
するんだけど、今回は、あまりそういう感じがしなくて。
ある意味、マンガ的、というか、どこかうまく ずらしてる、というか。
たとえば、いじめの内容が、バナナジュース買って来い、だったりとか、
現実の学校の先生が、松尾スズキだったりとか。

でも、その中で生きてる晴生にしても、赤井にしても、
だったら もっともっと軽い作りにしてもおかしくないのに、
「ただのコメディ」になってしまわないだけの重量感みたいなものがあって
笑えるんだけど、心の底からは笑えない、というか、
笑い飛ばしてしまうには、あまりにも痛い、というか。


これは、私だけの感覚かもしれませんが、
「はみだし!スクール☆デイズ」という‘ドラマ’と、
その登場人物のひとりである「相沢晴生」の‘日常’とが、
ほとんど同じレベル=リアリティがない状態で語られる、
やがて、晴生の中の「ドラマと現実」が綯い交ぜになって行く、
そうなることで、観る側(観客)の、
「ドラマの中の役を、演じる俳優と重ね合わせて観てしまう習性」や、
「ドラマの中で語られたことが、正しく、真実だと思い込む習性」が、
いかに残酷に俳優に降り掛かって行くか、が、
浮き彫りになって行った気がするのです。


その「ドラマの虚構性」を、
最も自分の中に取り込んで、最も染まってしまったのが、相沢晴生で、
一方、自ら鴻ノ池幸一という非常に人々に愛され信頼される
キャラクターを作り出し、
15年、その役一筋に生きてきたのに(いや、だからこそ)
「ドラマの嘘」の功罪を知り尽くし、
そこから最も遠いところに身を置いていたのが、
赤井豪だったのではないか、と。


晴生を演じる晴生、鴻ノ池を演じる赤井、
という二重構造(ドラマと現実)は、さらに、その先で、
晴生を演じる晴生、を演じる森山未來
鴻ノ池を演じる赤井、を演じる田辺誠一、に繋がり、
「ドラマの人間、を演じる人間、を演じる俳優」という三重構造
になって行く。

そうやって、多重人格者のように嘘の上に嘘を重ねた彼ら俳優によって、
私は、この映画の中に、
「ドラマの世界の嘘」のウラにある
「逆説的な意味での(真実を含んだ)現実」を、
何かしら受け取ることが出来たような気がするのです。
その「何かしら」の中身を、今はうまく話すことが出来ないし、
そもそも、そんなものを、守屋健太郎監督が狙っていたのかどうか、
というのも、アヤシイ話ではあるんだけれども。(笑)